等身大の《私たち》:新井英樹著(参謀:鏡ゆみこ)『SPUNK - スパンク!』
ChatGPT、”spunk"の意味を教えて......
新井英樹著(参謀:鏡ゆみこ)『SPUNK - スパンク!』の読書会に参加した。Amazonは"参謀"という意味をかみ砕けなかったようで、"新井英樹 (著), 鏡ゆみこ (その他) "という記述になっている。著者の新井さんも参謀の鏡さんも「2人で共同して作ったと言っていい」と読書会で話していたので、「その他」というAmazon社の苦肉の策の工夫に笑みがこぼれる。
いずれにせよ、ChatGPTが教えてくれたように、"SPUNK"には「元気」「勇気」「意気込み」「自信」「活力」等の文脈によって変わる複数の意味がある。この『SPUNK - スパンク!』というマンガには、その表題通りの複数の意味が含まれている。
マンガを課題本とする読書会としては、杉浦日向子『百日紅』、新井英樹『ひとのこ』、そして今回の『SPUNK - スパンク!』、いずれも面白かった。それはいずれも作品として優れているからだろう。
正直なことを言えば、『SPUNK - スパンク!』と同じ著者の『ひとのこ』の時はびっくりしてしまったというのが正しい。『ひとのこ』の主人公にもびっくりしたが、浮浪者のような生活をするカップルの"愛"の姿にもびっくりしたのだ。あれはきっと著者による”augmented reality”、拡張現実だったのだろう。
その意味では、今回の『SPUNK - スパンク!』はもっと等身大の《私たち》が描かれている。読みやすいし、構成も読者に親切な気がする。読書会への参加がこのマンガを読む機会になって本当に良かったと思う。
「作品の中で一番、自由だと思うのは誰ですか?」と問われたらなんと答えよう。登場人物に《アンドレ》という人が出てくるが、読書会では"この人が一番自由だと思った"という人がいた。確かに《アンドレ》は面白い。
実は私の知り合いに、顔がこの《アンドレ》にすごく似ている人がいて、《アンドレ》が登場するたびに、私はなんだか笑ってしまった。
私の知り合いの方は中堅の会社の営業系のエラい人だが、「いやぁ~、この前行った自由が丘の美容院がさぁ、店員、ピンクの制服のミニスカートでさ、コスプレかよって思ったよぉ」というような人だった。たぶん、そういうお店ではないとは思いますが、思わず、「え、それはそういう店でしょう」とツッコまずにはいられない。
別のときには、「健康診断ってあるじゃない。あれさ、オレ、九州まで行くんだよね。泊りがけのホテルみたいなとこ。電話かかってこないし。で、ピンクの制服でさ・・・」とも言っていた。たぶん最後の部分は盛っているとは思う。でも、もしかすると・・・と思わないわけでもない。各地の支店の営業会議は、贔屓のスポーツチームの遠征日程に合わせてスケジュールしていたりもしたからだ。硬い会社の人だったが、どこかかなり自由だった。なので、マンガを読みながら、「あれれ、もしかして、ときどき《アンドレ》って呼ばれてます?」と、心の中で《自由》なその知り合いに心の中でツッコみを入ながら読んでしまった。
「作品の中で一番、自由だと思うのは誰ですか?」という《問い》に戻ると、私は栗田夏奈、《かなちゃん》と答えました。普通? そう、普通だ。
もちろん、彼女だって悩みがない訳じゃない。モヤモヤとした気分にならないわけでもない。そういうことと《自由》であることとは別に矛盾しないと思うからだ。
彼女が《自由》だと思うのは、なにかの新しい一歩を踏み込むための心のバリア(閾値)が低いからだ。心のエネルギーが同じ人がいたとしても、その人の心のバリアが高ければ、その人は自分の心の井戸から抜け出られない。心のバリア(閾値)が低ければ軽々とバリアを越えていける。私はそういうことを《自由》だと思っている。
たとえば、マンガの冒頭、小さい頃の《かなちゃん》が白線の上を歩きながら怪物やゾンビと戦っている。そして彼女を探しに来たパトカーに気づくとそれをナウシカの王蟲(オーム)に見立て、クシャナに変身して叫ぶ。「焼きはらええ」と。擬音は《どおーーーん!!》だ。
でも、このシーンで描かれているプロトンビームを出すのは、王蟲(オーム)じゃなくて巨神兵だ。そして、その巨神兵が焼き払い、薙ぎ払おうとした対象が王蟲(オーム)だ。しかも、《かなちゃん》の王蟲(オーム)は蜘蛛みたいな足になっている。
それでもいいのだ。それは些細なこと。《かなちゃん》の中ではそれで正しいし、それが《自由》ということだからだ。
確かに《かなちゃん》、つまり《かな》は、もう一人の主人公《冬美(ふゆみ)》に比べるとローコンテクストだといえる。空気が読めず、空気を読まない。ダブルKYです。勘が良いということを加えればトリプルKYかもしれない。そこが《かな》の良さであり《自由さ》であり、文脈と空気のハイコンテクストに生きる《冬美》と対象的なところだ。《冬美》海水浴に行くのに『ゴドーを待ちながら』を持っていってしまうようなところがある。
このマンガが面白いなと思うのは、全体を通しては、なんとなくだが結構ベタの黒のトーンを使ったりして、濃い印象で描いているのに、ときどき、妙にタッチの薄い感じの描き方になるところだ。それは心が《自由》になる転換点なのかもしれない。
だから、「誰が自由か」という問いは良い問いではあるが、本当は「どこで登場人物は《自由》を得たか?」という問いも面白いかなと思う。
《かな》でいうと冒頭の方の同じ白線を歩く女性との出会いだろうか。このシーンも擬音は《どおーーーん!!》だ。
そういえばちょっと《冬美》との関係でモヤモヤして、《冬美》に「ドンマイ」と言われてさらに落ち込んだときも、周囲からの励ましも《どおーーーんマイ》だった。まぁ、さすがにこれはちょっと無理筋か。
ちなみにこのシーン、下の方にコマ割りからちょっとはみ出してキスの音が描かれている。下のコマにあるのは《冬美》と《ジュリアン》のシーンだ。だから、ちょっと新井さんは意地悪かもしれません。もちろん《意地悪》というのは良い意味だ。
いずれにせよ、タッチの薄さが《自由》への変曲点かなと私は思う。
《かな》と《冬美》以外で、薄いタッチになる極めつきは《サモハン》だろうか。このシーンでは、ローコンテクストな《かな》だけびっくり顔だが、他の登場人物は結構泣いている。いまどきの言葉でいうと《エモい》からだ。「ほならこっちはにしきの足や」という店長《いぶき》の台詞が泣かせる。《いぶき》も泣いている。ハイコンテクストの《冬美》も泣いいる。そして歌唱王である《サモハン》は平山みきの「真夏の出来事」を歌う。やっぱり《かな》だけがびっくり顔だが、《サモハン》の歌う姿にちょっとトキメイテいるかもしれない。彼女が泣いていないのは当然で、《かな》はローコンテクストだからだ。そして《かな》は《かな》なりに受け止めている。
きっと《サモハン》はこの後は普通にお会計をして、そしてたぶんタクシーで夜の街を一人で帰っていったことだろう。《サモハン》にとっての普通。《サモハン》にとっての輝くという意味。このマンガでもっともエモいシーンだと私は思う。
マンガでは、この後、ローコンテクストとの《カナ》が「真夏の出来事」を気に入ってしまって「もう帰れよ」と店長にウンザリされるシーンと、ハイコンテクストの《冬美》が《ジュリアン》の車で夜の街をドライブするシーンとが描かれる。《冬美》と《ジュリアン》の予感と、ローコンテクストの《カナ》。それを平行して描くところがちょっと意地悪で気に入っています。余談だが、そのだいぶ前のシーンで《サモハン》が黒澤明『生きる』の志村喬のモノマネで「命みじかし恋せよ乙女」と歌っているシーンで、《ジュリアン》に出会ったばかりの《冬美》も同じ歌をブランコを漕ぎながら唄っている。そこもやっぱり意地悪だ。そしてなかなかにぐっとくる。
ああ、だいぶ、長くなってしまった。もし『SPUNK - スパンク!』を未読なら、タッチの薄いところと同じページで複数のシーンが交錯しているところを中心に2度読みしてみると面白いかなと思う。
結構、元気が出るんじゃないかと思う。
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