自由で楽しい時間:四元康祐『ダンテ、李白に会う』
四元康祐『ダンテ、李白に会う 四元康祐翻訳集古典詩篇』を読んだ。
面白かった。詩人の四元康祐氏が、リルケ、ディキンソン、ダンテ、杜甫、李白、ウィリアム・ブレイク、キーツなどの詩人の詩を、四元康祐氏が自身の観点で訳していくのだけれど、それがとても自由なのだ。
たとえば杜甫の有名な絶句。
著者はこんな風に言う。
そして、こう訳す。
同じ詩を読み、心でも同じような風景を眺めていたはずだったのに、著者の心と言葉はすばらしい跳躍をする。
私はそれを美しいと感じる。《言語》の本質とは、伝達であり、ずれであり、飛躍と拡張だと思うからだ。それこそが《ことば》がシステムとして《生きている》ということだと思うからだ。世界は《ことば》を中心に拡がっていく。それはとても楽しいことだ。
若いときにリルケの『マルテの手記』を読んで衝撃を受けたことを思い出した。そこには出会ったことがない言葉と風景があった。一方でリルケの詩は私には少し難しかったようにも思う。
いまこの著者によるリルケの詩の訳を読み、リルケに驚いたあの頃の気持ちを思い出す。どこか懐かしいような気持ちすらする。
元の詩からどれくらい跳躍しているのかはわからない。そんな跳躍を翻訳ではないと言わないこともできるだろう。しかし、そもそも変換っていうのは面白い仕掛けなのだ。《違うのに同じ》《変形させても同じ》という部分にものごとの本質は隠れているような気さえする。
そういうことを見つけたり知ったりすることは楽しいし、そういったことが楽しかったことを思い出させてくれる。《遊び》とは本来そういったものだったはずだし、《何かを知る》ということ自体がそもそも自分の心の中での変換だったかもしれない。
ディキンソンとウィリアム・ブレイクは最近になってから読んだ詩人だ。本書で読むと「あれれ、こんなに面白かったっけ」と驚いてしまう。著者の訳すウィリアム・ブレイクはなんだかちょっと可笑しくて可愛いし、ディキンソンは私が思っていたのよりもずっと明るくて饒舌でおしゃべりだ。
キーツもそう。ああ、そうか、キーツは実はこんな感じだったのか、こんな風に読めばよかったのか。。。と思った。
ダンテの『神曲』には私はまだ出会っていなかったので、四元康祐版『神曲』を読むほどに、私の中で『新曲』の世界が組成されていくのを感じる。そして大団円。
伊藤比呂美の『読み解き「般若心経」』も新鮮でとても良かったのだけれど、四元康祐『ダンテ、李白に会う』には心の底からびっくりしてしまった。そして何より楽しかった。
伊藤比呂美も四元康祐も私よりはほんのわずかに年上の詩人だけれど、現代詩の既存の枠を軽々と飛び越えていると感じられることに、なんだかちょっぴり嬉しくなってしまった。
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