水に映る自分の影
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高校時代、私は水泳が得意だった。高校ではエースとして扱われ、大会で校内記録を次々に更新していった。友人たちからは「次はどんな記録を出すんだ?」と半ばお決まりのように期待され、それに応えるのが楽しかった。私の中で水泳は努力と才能が結実する場所であり、少なくともその頃は自分が「選ばれた人間」の一人だと信じて疑わなかった。
大学に進学しても当然のように水泳部に入った。医学生が集う東医体(東日本医科学生総合体育大会)という大会は、高校時代によく出ていた都大会よりもはるかに規模が小さく、入賞を狙いやすいことは聞いていたので、「なんとかなるだろう」と根拠なく高をくくっていた。
しかし、入部してすぐにその考えが甘すぎたことを思い知らされた。大学水泳部は高校時代とはまるで異なる世界だった。東京医科歯科大学の練習メニューは想像以上にちゃんとしていて、スピードもトップの先輩たちに到底及ばなかった。高校時代は「自分がトップであること」が当たり前だったのに、今や「目立たない一部員」として泳ぎ続ける日々。
最初の挫折は東医体の個人種目だった。高校の時なら間違いなく決勝に進出できるはずのタイムだったのに、予選落ち。ゴールした瞬間、タイムを確認する私の視界はぼやけていた。水泳が嫌いになったわけではない。むしろ、これまで水泳に支えられてきたからこそ、その現実を受け止めるのが怖かった。
練習帰りの夜、プールサイドに残る波紋をぼんやりと見つめながら、「自分にとって水泳とは何だったのか」を考えた。競技者としてのプライドを打ち砕かれた今、残されたのは単純に「泳ぐことが好きだ」という気持ちだった。
それからは少し肩の力を抜くことにした。タイムを気にするのではなく、純粋に水の中にいる感覚を楽しむこと。それでも練習を続け、目標を持ち続けることで、高校時代とは違う形の充実感を得られるようになった。
大学の水泳部で味わった挫折は、当時の私にとっては小さくも大きな出来事だった。自分の「トップでありたい」という願望を手放すことは苦しかったが、それを乗り越えた先には、「結果だけではない楽しさ」や「自分なりの成長」を見つける道が待っていた。
あの頃の挫折がなければ、私は未だに「自分は特別だ」と思い込んでいたかもしれない。今では、自分を過信することの危うさと、何かを続けることの本当の意味を教えてくれた水泳部の日々に感謝している。