『アイヌ神謡集』は岩波文庫の赤でいいのか?――田中駿介氏の記事を読んで
「論座」に掲載された田中駿介氏(@tanakashunsuk)の記事「「観光資源化」するアイヌ民族の歴史に、なぜ歯がゆさを感じるのか」を読んでいて考えさせられた箇所がありました。
このなかで田中氏が、岩波文庫で『アイヌ神謡集』が赤(外国文学)、『おもろさうし』が黄(日本文学)に分類されている、と指摘したうえでポスコロ的に批判しています。
余談だが、同書(引用者注――『アイヌ神謡集』)は岩波書店から刊行されているが、なぜか「外国文学」の扱い=赤になっている。一方で沖縄最古の歌集とされる『おもろさうし』が日本文学の扱い=黄色になっていることに鑑みると、植民地主義の歴史に敏感でなければならないはずの出版界ですら琉球・アイヌ文化をいかにぞんざいに扱ってきたのかが伺える。
まず細かい話を先に処理しておくと、記事中にある「岩波書店」で赤・黄になっているというのは、もちろん文庫のこと。アカデミックライティングとかだと版元名で示すことが多いけれど、ここは叢書名にしないと意味が通じません。
もうひとつ、これ、かなり大事な部分ですが、〈『おもろさうし』が日本文学の扱い=黄色になっている〉というのは不正確です。岩波文庫の黄は「日本文学(古典)」に割り当てられる色です。『おもろさうし』は一六、一七世紀の琉球王国の歌謡集。当然、古典です。漱石や太宰を「古典的名作」とかいうことがありますが、あれは感心しない。日本文学の場合は維新期を境界として「古典文学」と「近代文学」をくっきりわけるのが通例です。
で、本題ですが、『アイヌ神謡集』を岩波文庫はどこに入れるべきなのか。この本に収められている歌謡は大正年間、アイヌ人の知里幸恵が祖母の継承していたアイヌ神謡(カムイユカラ)を採集し、日本語に翻訳したもの。幸恵がこの作業を実践したのは金田一京助の助言があったからでした。金田一京助は明治三〇年代末に帝大言語学科で上田万年の指導を受け、アイヌ語の研究を志した人物です。このころの万年門下には小倉進平(朝鮮語)、伊波普猷(琉球語)、後藤朝太郎(中国語)らがおり、それぞれ周辺民族の言語と文芸を研究対象として見定めていました。時期的にいうと北海道旧土人保護法が制定された直後のことです。
(金田一と幸恵の関係性を批判的に論じた研究はすでにいくつかありますが、とっかかりとしては、植民国家思想をめぐる同時代的な状況を俯瞰した村井紀「滅亡の言説空間――民族・国家・口承性」(ハルオ・シラネ、鈴木登美編『創造された古典――カノン形成・国民国家・日本文学』一九九九、新曜社)を読むのがいいのではないかと思います)
幸恵が採集・翻訳したアイヌ神謡は『アイヌ神謡集』として郷土研究社から一九二三年に出版され、その後重版されたり違う出版社から出たりして戦後まで読み継がれ、そして一九七八年に岩波文庫の赤に収録されました。なお比較対象になっている『おもろさうし』上下巻が岩波文庫の黄に収録されたのは二〇〇〇年です。
このような経緯をみたとき、『アイヌ神謡集』が岩波文庫の赤として収録されたことには、いちおうの妥当性があると思います。少なくとも金田一京助はアイヌ語を、朝鮮語や中国語と並置してまなざす学術的判断のなかで学んだ学究でした。そして幸恵は(これは本の成立過程からいって、金田一は、といってもよろしいかと思いますが――)、採集した歌謡を、発音をローマ字で、翻訳を現代日本語で示すという方法で記述しました。『おもろさうし』とは異なって、本文が現代日本語になっているのです。初刊はもとより、岩波文庫に収録された一九七八年の価値判断からいっても、非日本語圏の文芸を現代日本語に訳出したものを赤に入れるという判断は大きな誤りとして同時代的に指摘されうるものではなかったでしょう。一九七八年といえばポスコロ批評の母胎となったサイードの『オリエンタリズム』が発表されたまさにその年です。北海道旧土人保護法が廃止されるのは一九九七年になってからでした。
『おもろさうし』が岩波文庫の黄に入っているのは、おそらく琉球語が日本語と近く、かつ時代的には古典の範疇に入るものだからでしょう。琉球語研究の言語資料としても用いられる作品ですが、もしこれが現代日本語に翻訳されていたとしたら? 緑(日本文学(近代・現代))になるのか、赤になるのか――IFの話をするのは無意味でしょう。
岩波文庫の色の区分は非常に恣意的です。田中氏の指摘する問題もその一つだと感じます。ただし〈琉球・アイヌ文化をいかにぞんざいに扱ってきたのかが伺える〉という書きぶりには必ずしも賛成しかねる部分があります。ありていにいえば、何を言っているのかよくわからないのです。現状の岩波文庫では、琉球文芸は日本文学(古典)に、アイヌ文芸は外国文学に、それぞれ分類されていて、それは「琉球・アイヌ文化」を「ぞんざいに扱ってきた」歴史を示しているというのが田中氏の筆の運びですが、岩波文庫における琉球・アイヌ文芸の扱いがちぐはぐである以上、琉球も、アイヌも、どちらもぞんざいである、ということはあるのでしょうか。民族に関する日本の諸問題のうち大きな位置を占める琉球・アイヌに関して、対応に差異がある、ということが問題なのでしょうか。ならば、どちらにそろえるのがよい、というのが聞きたい。私、気になります。〈なぜか「外国文学」の扱い=赤になっている〉というからには「日本文学」に組み入れるのを是とするのが田中氏の見解なのでしょうが、でもその「組み入れる」的な思考って植民地主義そのものでしょう。むしろ私は『おもろさうし』が黄になっている方がやばいと思いますよ。
問題は、おそらく岩波文庫の色分けでしょう。
ここで示されているとおり、岩波文庫の色分けは以下の五種類。
青…思想・哲学・宗教・歴史・地理・音楽・美術・教育・自然科学
黄…日本文学(古典)
緑…日本文学(近代・現代)
白…法律・政治・経済・社会
赤…外国文学
ジャンルごとに区分し、そのうち文学(literature)は日本と外国で分けている、ということになりそうです。岩波文庫が創刊された昭和初年代には、「日本」と「外国」という二分法が孕む問題など、まだまだ発見されていなかったわけですが、しかしいまや二一世紀。『おもろさうし』は日本文学じゃなくて琉球文学だ、と思うんですが、じゃあ赤にすればいいかというと(本文を現代語訳するかどうかはともかく)、琉球圏は「外国」じゃないんすよね。田中氏はおそらく、アイヌ文化圏は「外国」じゃなくて「日本」という国家の定義の話をしている。幸恵が近代日本の近代教育を受けて現代日本語に堪能な人物であったことも加味してみると、『アイヌ神謡集』という書物自体(≠アイヌの歌謡)は、日本近代文学だといえるかもしれないけれど、それってポリコレ的にどうよ。つらつら考えてみるに、アイヌと琉球の文芸の場合、「日本文学」と「外国文学」という言い方にそもそもの問題がある。「日本語の文学」と「翻訳文学」ならどうだろう。『アイヌ神謡集』を緑に入れるか赤に入れるかは、この本がアイヌ語と現代日本語を併記しているという性質上難しいが、まあ翻訳文学でしょう。一方琉球語の歌謡である『おもろさうし』はやや難しいけれど、琉球語と日本語はともに日本語族なので、ただし「日琉語の文学」という括りを『おもろさうし』一作のために導入するのは現実的に困難だろうから、日本語文体への補助線という名分を明記するなどの配慮をして「日本語の文学」に入れるとかどうでしょう。
ま、そもそも何かを特定ジャンルに分けることができるという考え方自体がもはや古くさい気もするので、いっそ岩波文庫は色分けやめてもいいんじゃないの、というのは思いますね。青になってる本がほかの出版社だと文学扱いになってることだってよくあるし。
田中氏の記事を読んで、たしかに岩波文庫っておかしいよなあと思い、つらつらと書いてみましたが、まがりなりにも出した結論がはたして現今のポリコレの議論のなかでどれだけ妥当性のあることをいえているのかはちょっとよくわかりません。