心の片隅に残り続ける「あのこと」
「十五少年漂流記」、忘れることのできない本のタイトルです。小学6年生だったと思います。宿題の読書感想文、もう夏休みも終わりという頃に本屋で見つけたのが「全国読書感想文コンクール作品集」。中を見て思わず買ってしまいました。あったのです、「漂流記」が。
真似る気はなかった、かどうか、今となっては定かではありません。課題図書を読んで自分で感想を書いたつもりでも、お手本を読むとそれに引っ張られた。結果として似てしまったことは確かです。
宿題を提出したあと、なんと学校内審査で入賞したのです。それもトップで。
これには困りました。今さら「見ました」とも言えない。後悔と反省で、どうしようかと思ったのですが、放っておくしかありませんでした。
それ以来、この「ヒントを得た」以上の、「真似た」に近い行為はできません。あのことをまた思い出しますから。
ところが今回、せっかく忘れていたのが顔を出したのです。
愛媛新聞が、自社の社説2本に共同通信の論説資料に似た表現が複数個所あったと発表した。どちらも論説委員長が執筆したもので4月と5月に掲載されたという(毎日新聞)。
「引き写しはしていないが、結果的に一部が共同通信の表現に似てしまった」と話しているそうです。
同じじゃないですか。しかも、この人はプロですよ。
小学生の頃は心が純粋なんでしょうね。わたしは、数十年たっても心の片隅から「あのこと」が離れません。
この人は、心の中で残り続けるのでしょうか。
余談ですが、この愛媛新聞の話、つい邪推してしまいました。
「似ている」のを指摘したのは、社内の別部署と他の報道機関だといいます。この「他の報道機関の人」は、たぶんそこの論説委員さんに違いありません。
何故って?
「社説を読むのは同業者だけだ」と丸谷才一さんが言っていましたから。