印の歴史。篆刻ってなに?【前編】
2020年、行政改革担当大臣河野太郎氏が行政手続きのハンコを廃止を訴え、急速にデジタル化が進んでいきました。庶民の日常生活においても、ハンコの必要な場面はもはやほとんどない・・・と言っても良いのかもしれません。
しかし。
今なお日常的に印を大切に使っているのが書道家。一般的な書道作品にはなくてはならない存在です。
今日は書道の印「篆刻(てんこく)」について見ていこうと思います。
印の起源 -お守り、封緘-
印の起源はかなり古く、5000年前のメソポタミア文明で使われていたと言われています。お守りのような役目や封緘(ふうかん)のために用いられていました。その頃は文字というよりは絵に近いものだったようです。
現在でもこの名残として、封書に「封」や「緘」の文字を書いたり、そのハンコを押したりすることがありますね。
中国は秦の時代 -印鑑制度の確立-
中国で印鑑制度が確立したのが、秦の始皇帝(紀元前259-紀元前210年)の頃。秦の始皇帝は国策として文字の統一(小篆)を行った人物でもあります。
この頃、官僚に任命される際、印と組紐(綬)を授けられました。印綬をもってして職務が受け継がれていました。
またこの頃日本においては、歴史上有名な「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」という金印が後漢(25-220年)の光武帝より贈られました。
おそらく、「押印する」という意味合いよりも、「印を所持する」という意味合いが強かったのではないかと考えられます。つまり、印はモノとして大切な物=宝物のような意味合いが強かったということでしょう。
まだ紙が無い時代
ちなみに、紙が生まれ普及してくるのは1世紀以降。秦漢の時代はまだまだ紙があるかないかの頃です。
紙がないので、朱文(押すと文字が赤)・白文(押すと文字が白)という概念はまだありません。粘土に押し付けることが多かった当時は、押すと文字が浮かび上がる、つまり「白文」形式で彫られた印が主流でした。しかし「白文」はまだ言葉がないため、「陰文」とでも言うべきものです。
唐代 -押印、陰陽逆転-
時代は進んで唐(618-907年)の時代。紙の普及も進み、中国で書道が最も熱かった時代と言っても過言ではないでしょう。
この頃には印も紙に押されるようになり、宝物としての要素が強かった面から、押された印影の方を重視するようにもなりました。
また秦漢の時代の印と比べると、
陰文から陽文が増えた
直線的な文字⇒曲線的な文字が増えた
文字の線が細くなった
印自体が一寸から二寸と大きくなった
という変化も見られました。
その後、印から篆刻へ
唐代で印の意味合いは大きく変わりました。そこから芸術性を帯びた「篆刻(てんこく)」が花開くには少し時間がかかります。篆刻とは篆書体(てんしょたい)をハンコの文字として刻したもの、のことを言います。
もちろん、芸術性のハンコが流行ったからと言って、実用としての印がなくなったというわけではありませんが。
印と篆刻の違い
篆刻は印の一部と言えます。しかし、銀行印、認印などのハンコのことを一般的に「篆刻」とは呼びません。
では何が「印」であり、何が「篆刻」であるのか。
書道家である石川九楊氏(1945年-)は、「芸術としてふるまう」印が篆刻である、と言っています。
もう少し違いを挙げるのであれば、印はその明快さ(文字が欠けていることなどはタブー)を求められるが、篆刻はかえってそれを味わいとしてもはや不可欠な要素であるなどの違いがありましょう。
篆刻、書道の一分野へ
このように、印は芸術性を帯びた篆刻へと進化・独立。篆刻は、文字を扱う芸術=書道の分野として発展していきます。
篆刻が花開くのは明(1368-1644年)の時代。
次回は、篆刻の有名作品について見ていこうと思います!
<参考>『書の宇宙 23』石川九楊
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