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論駁!「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」(3/3)最終回

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左:書道家タケウチ 右上:書道家板谷栄司with鯖大寺鯖次朗 右下:ジャズギタリストタナカ

「書ハ美術ナラズ」論争!小山正太郎VS岡倉天心


▼小山正太郎「書ハ美術ナラス」現代語訳(お字書き道TALKS版)
150年前の論文を読む「書ハ美術ナラズ」①
150年前の論文を読む「書ハ美術ナラズ」②
150年前の論文を読む「書ハ美術ナラズ」③-前編
150年前の論文を読む「書ハ美術ナラズ」③-後編

▼岡倉天心「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」現代語訳(お字書き道TALKS版)
論駁!「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」(1/3)
論駁!「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」(2/3)

▼小山正太郎「書ハ美術ナラス」
(元論文)
①東洋学芸雑誌8号172頁(1882[明治15]年5月)

東洋学芸雑誌9号205頁(1882[明治15]年6月)
東洋学芸雑誌10号227頁(1882[明治15]年7月)

▼岡倉覚三「書ハ美術ナラスノ論ヲ読ム」(元論文)
東洋学芸雑誌11号261頁(1882[明治15]年8月)
東洋学芸雑誌12号296頁(1882[明治15]年9月)
東洋学芸雑誌15号397頁(1882[明治15]年12月)

書道に関する約150年前の論文を読み進めていますが、ついに最終回!この回は岡倉天心の第三回(最終回)です。最初から読みたい方は、上のリンクよりアクセスをお願いいたします。

※読者の方々は、基本的には現代語訳の方を読めば良いと思いますが、これは筆者の意訳です。読みやすいように、句読点の追加、改行、()書きの追加、などを適宜しております。
間違いや異論等もあるかと思います。その場合はコメント欄にてそっとご指摘くださいませ。



書き起こし(カタカナ→ひらがな、旧字体→新字体)

東洋学芸雑誌15号397頁(1882[明治15]年12月)

是より第三の論点に進み書は美術の作用をなさすとするの説に就て当否を判せんとす余は既に第十二号に於て小山氏の書は美術となすへき部分を有せすとする論を駁したる時氏は書は唯た図画に非す彫刻に非すと言ふに過きすして本論には毫末の関係なきを歎せり今此に至て同様の歎息を発せさるを得さるなり要するに氏は先つ一般の美術の含有すへき性質を示定せすして書は絵画彫刻の有せる部分なきを以て美術ならすとし又一般の美術には如何なる作用あるへきやを論定せすして書は絵画の作用なきを以て美術ならすと云ふ何そ顧はさるの甚しきや仮ひ書を作くるは美術中最も画を作るに近しと雖とも其目的法方の隔絶せる所を察せす猥りに画の作用を書に求むるは豈公平の論ならんや試に見よ彼の彫像術と彫刻術の間に於て同しく鑿を以て石を刻むの術たりと雖とも其目的方法各異なり彫像家の妙とする所は必すしも彫刻家の妙とする所に非す彫刻家の短とする所は必しも彫像家の短とする所に非す若し夫れ彫刻にして彫像の作用をなす能はさるを笑はヽ梅花にして牡丹の作用をなす能はさるを笑ふに均しからんのみ然り而して小山氏の絵画の作用(他に美術の作用を明言せされは之を美術の作用と看做すも可ならん)として掲出したる作用は之を美術純正の作用絵画純正の作用となすに足らさるに似たり氏の絵画の作用となすは風教を助け或は言語の及はさる所を補ふに在りと雖とも第一絵画にして風教を助くるは固より偶然に出て本分の作用となすへからす夫れ画家の筆を綴り紙に臨むに当り豈其画を以て風俗を改良するの目的あらんや彼れ胸中一塊の美術思想ありて之を筆鋒に訴ふるのみ故に其画にして能く画家の思想を表出し看者をして之を会得せしむるに足らは画の作用既に尽きたり看者にして善心を生し悪念を起すや否は画の美術たるを忘れたるなり此を以て風教を害する絵画と雖とも美術上よりは必しも之を咎めさるなり
(高尚なる美術思想は常に高尚なる道徳思想に伴ふと雖とも主客の分判明せり)
小山氏の次に絵画の作用となす所は言語の及はさる所を補ふに在りと雖も只今陳したる如く之も本分の作用に非すして諸般の実用技術も亦同一の作用あるは理の見易きものなり概するに小山氏の絵画の作用なると云ふものは純正の美術上の作用に非されは実用技術を以て之に代ふるも更に妨けなきか如し今其一二例を挙けんに彼の所謂「泉下慈親の容貌を座右に置て敬慕の情を保続せしめ臥して海外万里の名山勝地に漫遊せしめ」云云の如き又「古今の風俗を一日間に歴観せしめ各地の風景を一室内に集覧せしめ滄溟深淵の妖魚毒虫深山幽谷ノ猛獣怪禽を眼前に置て徐に観察せしめ」云云の如きは皆写真を以て十分に其作用を尽すを得へし豈美術本分の作用ならんや
以上論弁するところにて第三論点を結了し小山氏は書の美術ならさるを証明する能はさるを論述せり以下は書を勧奨するの利害得失に係り多くは政略上の論に属するを以て此に筆を擱かんと欲す然れとも小山氏は美術の利益を一般の工芸に比し「書は高価を以て海外に輸出する能はす」又「工芸を進むるの基と為て百般の事業振起」するの幇助たらさるを以て之を無用のものなりと断定せり余読て此に至り慄然として言ふに堪へさるものあり嗚呼西洋開化は利欲の開化なり利欲の開化は道徳の心を損し風雅の情を破り人身をして唯た一個の射利器械たらしむ貧者は益々貧く富人は益々富み一般の幸福を増加する能はさるなり此時に当り計をなすに美術思想を流布し卑賤高尚の別なく天地万物の美質を玩味し日用の小品に至るまて思想を歓悟するの具に供せしむるに若しくはなし美術を論するに金銭の得失を以てせは大に其方向を誤り品位を卑くし美術の美術たる所以を失はしむる者なり豈戒めさるへけんや」書は果て美術なるや否は後日を待て之を論せんとす知らす小山氏は二十年を隔て如何なる感覚あるへきか爰に論を結ふに当り悪詩一詩を以て妄評の罪を謝す (完)

寄小山氏
一向騒壇角後先。自今何用更揚鞭。笑而無語却招罵。言者不知真可憐。雁字書空元是影。鶯梭触柳豈非縁。予期樽酒来談旧。白髪飄蕭二十年。
竹酔子云。厂字書空影而非影。鶯非触柳無縁而有縁。彼弁美術談工芸者、固是君子之争也。為真理攻究真理。何嫌更揚鞭乎。他年両氏話旧之日。幸分樽酒一杯否。呵


現代語訳(意訳)


ここから第三の論点に進み、書は美術の作用がないとする説について、その正誤を判断しようと思う。

私は既に第十二号で、小山氏の「書は美術となるべき部分を持たない」とする論に反論したとき、小山氏は「書はただの図画や彫刻ではない」と言っているに過ぎず、本論(書は美術ではない)とはちっとも関係のないことを嘆いた。今、この場においても同じように嘆息せざるを得ない。

要するに小山氏は、まず一般の美術が持っている性質を定義しないで、書は絵画・彫刻が持っている(美術的な)部分がないから美術ではないとし、また、一般の美術にいかなる要素があるべきかを定義せず、書は絵画の要素が無いから美術ではないと言っている。何と考えの及ばないことか。

たとえ、書を作ることが美術の中で言えば最も絵画を作ることに近いと言っても、その目的や方法が隔てられる(異なる)箇所を察せずに、みだりに絵画の作用を書に求めるのがどうして公平な議論になろうか。

試しに見てみてください。彼の彫像術と彫刻術の間において、同じように鑿で石を刻む技術であるといっても、その目的や方法はそれぞれ異なる。
彫像家が優れている点は必ずしも彫刻家の優れている点と同じではない。彫刻家の短所は必ずしも彫像家の短所ではない。

もし、彫刻に彫像の役割をなすことができないことを笑うのであれば、梅花に牡丹の役割ができないということを笑うことに等しい。

このようにして、小山氏の絵画の役割(他に美術の役割を明示しないなら、これを美術の役割と見なしてもよいでしょう)として挙げたものは、美術の純粋な役割・絵画の純粋な役割とするに十分ではない。

小山氏が絵画の役割としているのは、風教(徳をもって人々を教え導くこと)を助けたり、言葉で表現できないところを補ったりすることにあると言うが、第一に、絵画が風教を助けるのは偶然の結果であり、本来の役割ではない。

画家が筆をとって紙に臨むとき、どうして絵画で風俗を変える目的があると言うのだろうか、いやない。画家には胸中一塊の美術思想があって、それを筆に託すのみである。

だから、その絵が画家の思想をよく表し、鑑賞者にこれを伝えることができたのであれば、絵画の役割はこれに尽きるのである。鑑賞者が善心を生むか悪念を起こすかどうかは、絵画が美術であることを忘れている。このため、風教を害する絵画と言っても、美術の観点からは必ずしもこれを咎めることはできない。
(高尚な美術思想は、常に高尚である道徳思想を伴うと言っても、主客の判別は明らかである)

小山氏が次に絵画の役割であるとすることは、言語で表現でいないところを補うことだと言っても、今述べたように、これも本分の役割ではなく、諸般の実用技術もまた同じ役割があることは分かりやすいことだ。

概して、小山氏が絵画の役割であるというものは純粋な美術の役割でないので、実用技術でこれを代替しても問題はないでしょう。
今その1,2例を挙げよう。小山氏の言うに「亡き慈親の姿を座右に置いて敬慕の情を保ち続ける」「寝ながら海外の名山や絶景を漫遊する」といったようなものや、「古今の風俗を一日で見渡し、各地の風景を一室内で観覧し、深海の妖魚や毒虫、深山幽谷の猛獣や怪禽を目の前に置いて観察する」といったものは、すべて写真で十分にその役割を果たせるでしょう。これが美術本来の役割と言えるでしょうか。

以上で第三の論点を結し、小山氏は書が美術ではないことを証明することができないことを論述した。これより先は、書を奨励することの利害得失に関わり、多くは政策上の議論となるので、ここで筆を置こうと思う。

しかしながら、小山氏は美術の利益を一般の工芸に比べて「書は高価で絵画に輸出することはできない」「工芸を進める基盤となって、あらゆる事業の振興をする助けにならない」から、書は無用のものであると断定した。私はこれを読んで慄然とし、言葉を失った。あぁ、西洋開化は利欲の開化である。利欲の開化は道徳の心を損ない、風雅の情を破壊し、人々をただ利益を追求する器械にしてしまう。貧者はますます貧しく、富者はますます富み、一般の幸福を増加することはできない。

この時にあたり、美術思想を普及し、卑賤や高尚の区別なく、天地万物の美しいものを味わい、日常の小さな品に至るまで思想を歓悟する道具にするのが良いだろう。

美術を論じるにおいて、金銭の得失を基準にするのは大きく方向を誤り、品位を下げ、美術としての本質を失わせるものである。これを戒めるべきだ。

書が果たして美術であるかどうかは後日を待って論じようと思う。小山氏が20年を経て、いかなる感覚を持つか分からないが、ここに論を結ぶにあたり、悪詩で妄評を謝罪する。

小山氏に寄せて
一向きに騒がしく壇上で角を突き合っても、後先を問わない
これから何のためにさらに鞭を振るう必要があるのか
笑って黙っていると非難を招く
話す者は真実を知らず、本当に哀れだ
雁が空に書く文字は影にすぎない
鶯が柳に触れるのは縁であって無縁ではない
私は酒を酌み交わして昔の話をすることを期待している
白髪が風に吹かれて二十年が過ぎた
竹酔子は言う
「雁の字は空に書かれた影であり、影ではない
鶯が柳に触れるのは無縁ではなく縁がある
美術を論じ、工芸を語る者たちは、まさに君子の争いである
真理を求めて真理を探究するのだ
どうしてさらに鞭を振るう必要があるのか
将来、両氏が昔話をする日には、是非一杯の酒を分かち合いたいものだ」



ようやく、小山正太郎vs岡倉天心の論争、現代語訳が終わりました。

岡倉氏の論駁内容が、いささか小山の論点とズレていくような・・・?と思っていたら、おそらく岡倉氏も自認していた模様。

当時新しくできた「美術」という言葉のニュアンス、当時の書道の状況、小山・岡倉の立場、などももう少し深堀りする必要性を感じました。

ここまでやったのでまとめますが、どうまとめるべきか。

もう少しこのシリーズ続きます・・・!




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