#27☆『木に学べ』西岡常一
あまりにも素晴らしい、素晴らしすぎる本。
法隆寺や薬師寺の再建・補修を担った宮大工の棟梁が語る仕事の道、人の道。これほどの卓抜した知識、知見、哲学に触れられる機会は滅多にあるものではない。建築に関する専門的な部分は「そうですか」という以上に出る言葉もないけれど、その他の部分はほとんどどの頁を開いても唸る、唸らされる。人の生きるべき道を教えてくれる。
『リトル・トリー』の感想文でも書いたが、「アメリカ先住民もの」の良さは何と言っても、「受け継がれた知恵の体系」であると思う。現代までそういう伝統が続いている例は稀である。日本にも勿論、「大和心」みたいのはあるけれど社会が変わり過ぎたからなかなか明確な形では語られないし、伝わってこない。あくまでも内面的に何となく感じるもの。
しかしこの棟梁、西岡さんは法隆寺と対話してきた人。先人の技の道、教えの道を木から学びとって来た人。日本人の道を誰よりも雄弁に力強く奥深く語れる人であることは間違いない。
この一節を、多分予備校時代に国語の設問で読んだ記憶がある。ばっちり記憶に残っていた。それで私の中でこの人の教えが、特定の箇所だけスポットライトを浴びたように鮮明に記憶に残り、私のヒーリング哲学の土台となったのだった。
私は病気や治癒の発生と経過、また自己実現をこれを同じ原理で考えている。この人から教わったのだ。
この避けがたいものとしての「癖」をそのままに肯定し、適材適所に配置していく。拒否するのではなく、本質を損なってまで都合よく加工するのではなく…そしてその礎となるのは、神仏を前にした信仰心であり、その信仰心に向かって仕事を集中昇華させる。
すると人知人力の到達し得る最大の高みにまで達するようだ。それを法隆寺が1300年の歳月を越えて証明している。私たちには「ただの」歴史的遺産。しかし西岡さんにとっては偉大なる先人からの教えなのだ。そこには今の我々とは全く異なる高度な精神境地が、実物として結晶して刻み込まれている。
何度も同様の解体修理はされているらしい。しかしその時々で関わる人の、その時代の知性や理解の程が、これもまた物的証拠として残ってしまう。ある意味、恐ろしいことである。それを地層のように観察し、読み取っていく西岡さん。
今の時代を憂う人がいる(私もそう)。世の中良くなっている人と言う人もいる。色々、考えはあるにせよ、私は悪くなっていると思うし、悪くなっていくと信じている。しかし「なぜ?」と問われると、やや答えるのは難しい。というのは相手の知識量が理解の前提となるからだ。物を知らない人は失われたものの量と質についても知らない。しかしそれが何だったかいちいち説明できないでしょう。比較しようにも今の自分の体験の中に材料がないし。
ところが西岡さんは断固、である。なぜなら、彼の使う道具、選ぶ木、関わる仕事人が、すべて目に見えて質を落としているからだ。要するに、飛鳥時代を再現できなくなっているのである。この説得力は重い。
「ほらほらやっぱり!」と喜べるような話ではない。しかしやっぱりそうだったのだ。私たちの文明は落下しているのだ、ということを認めさせられる。
西岡さんは、この技と知恵は失われるだろうし、もうこの先はないだろうと言っている。それは悲観ではなく、そうだろうと思う。技の継承は一代でも連続を失ったら可能にならない。それは失われた技術に成り果ててしまう。どの分野もそうだけれど、伝統技術の後継者が今いない。
時代は悪くなっている、と言っても、私には「じゃあいつが最善最高だったの?」という問いに対する明確な答えがなかった。西岡さんは明らかに「飛鳥」だった。この本を読むと、そうであろう、間違いなく、と思う。それから1300年…人類の「歩み」なんて言っているけれど、酔っぱらった千鳥足だったのか。今はいよいよますますそうだろう。
世界に全く先行きの見込みがないことは事実だが、そんな中でも大切なものは未来永劫変わらないだろう。そのことを西岡さんはその全生涯、全仕事から教えてくれる。人間の知性の光、神や大自然との関係、信仰心や謙虚さがいかに大切なものか、それらこそが人間の最重要の本質であるということを。
今までとは全然違った世界の見方、歴史の見方、人間の本来の在り方を教えてくれる本。アトリエこしき選書入り。
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