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#88『織田信長 破壊と創造』童門冬二

 珍しく、読書感想文の間隔が空いた。普段より多めの外出に加えて、ピアノの練習が捗った。更に最近は瞑想または単にぼーっとするのが気持ちよく、本から離れ気味だった。
 という状況での、織田信長である。
 瞑想の気持ち良さとはかなり隔たった部類の話題ではあるが、良い本だった。

 改めて織田信長の革新性は天才であり、どうしてこんな人間が生まれたのかなあと不思議に思えてくる。勿論、秀吉も家康も天才であるが、信長には更に際立ったものがある。
 理由の一つは「破壊」という歴史段階に位置したことにあると思う。創造・維持・破壊だと、破壊が一番難しい。人間は慣れる生き物である。どんな不備のある環境でも慣れてしまえば「まあ、こんなものだ」という考えに落ち着いてそこから出てくることはない。思いついても、「これを壊したらどうなっちゃうかな」と不安になって決定的な行動を取れない。
 戦国時代という流動的な時代にあってさえ、旧時代の思考慣習の中に留まったものは多くいた。それぞれに能力や先進性はあったとしても、あくまでもある一定の枠内の光なのである。しかし信長は何が不要で何が邪魔か、そしてそれを取り払ったら何を代わりに打ち出せば良いかということを鋭い直観力で知ることが出来た。人類史上に名だたる天才であると思う。

 信長というとつい暴虐冷酷の人と思いがちであるが、そうでもない面も多分に持っている。民を守り労わることに関しては非常に徹底している。しかしそれは温情によるものというよりは、合理性によるものだ。民を守り労わった方が結局は上手く行く、ということを彼は知っていた。
 そういう知性こそが政治経済においては重要であると思う。為政者として信長は真に優れている。

 信長は何についても執念深い。そして怒りは激しく恨みも深い。敵に回したくないタイプ。しかし上司にもしたくないタイプ。部下には絶対出来ないタイプ。信長との関係で言えば、「領民」でいたいものである。なぜなら彼は守ってくれるから。
 人間の能力というものは人格の激しさと一致する傾向にある。これだけの能力者が温厚であるはずがない、と私は考える。それで心というものの謎めいた性質に考えが及ぶ。

 私たちは善人であろうとする。演じようとする。多分、それこそが私たちから力を奪っている元凶なのだ。心は本来無限の大海であるが、その中から社会規範に合わせて害のないような素材だけを集めて「私」ということにしている。信長の家臣もほとんどはそうだった。
 しかしそんな中、そういう多く一般の人間がするのとは全く違う「心との付き合い方」をする人がいる。その人たちはどうも「心とは力の源泉である」と考えている。普通の人たちは心を私物と考え、力は技や知識から生まれてくると信じている。
 信長は自分の心を観察していた。そしてその心の声に従って、様々な政策や戦法を編み出した。心に従っていたのであって、時代に従っていたのではなかった。だから彼は時代に先んじる決断をいくつもすることが出来た。
 彼は心に従属していたのである。だからその心が怒り狂っている!となれば、その怒りを止める必要など彼には一切なかった。「俺の心がキレているんだろう。止める必要などあるものか。染まり切って俺も一緒にキレてやろう」というようなものだろう。勿論、それが人間として良い行為かどうかというのは完全に別問題である。
 ここから分かることは、「人間は心に属しているのであって、心は時として非人道的である」ということである。
 私たちは大いに誤解をしているのだ。心を人間の管理物と考えている。害のないペットのように。しかし本当の心は聖なる野獣なのである。そんな心の実態を恐れることなく直視する勇気を持つ者が、あらゆる分野において天才の力を発揮してきた。天才はほとんど常に狂人だが、そういう理由があると私は考えている。

 

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