#81『ある奴隷少女に起こった出来事』ハリエット・アン・ジェイコブス
これは凄い本だった。書店にて、見るともなしに目に飛び込んできた。何か特別なオーラを放っているように感じた。
内容は、奴隷制時代のアメリカ南部で過ごした奴隷の女性が20代までを後年になって振り返るというノンフィクション。あまりの悲惨、理不尽、波乱万丈、そして高度な知性と優れた文章表現力のために、「これは白人女性が書いたフィクションだろう」という人々は思い、時代の波に忘れ去られてしまった。著者は身元がばれないように偽名を使っていたので、それも忘却の理由の一つではある。
しかし100年ほどして、ある学者がこれが正真正銘のノンフィクションであり自叙伝であり、当時の状況を正しく伝えるものだということを証明した。それで今ではとても有名になっているとのこと。
本書を覆い尽くす内容は、おぞましいの一言。奴隷に対して奴隷所有者が何をするか、考えるかということが、これでもかと映し出される。どこにも希望がないように思える。しかしそれでも著者は一縷の希望に賭けて危険を冒す。子供と一時的に(と言ってもかなり長い)離れることさえも代償にして、最終的には親子それぞれにばらばらの境遇で苦しみを舐めながら、母親は子供を取り戻していく。
逃亡奴隷となった著者は子供に姿を見せることも出来ない。しかし実は二人は同じ家で7年を過ごした。母親はずっと、屋根裏に身を潜めていたのである。ある時、娘が奴隷として転売される。母親は最後の一夜だけ、危険の恐怖を退けて娘の前に姿を現す。
母と娘の絆、全く記憶にない母親のことも即座に識別できる娘の直観、「誰にも言ってはいけない」という母の戒めを断固守り、黙して購入先の家に向かう娘の後ろ姿…泣かずには読めない部分である。
著者の類稀な良心、知性、忍耐力にただ驚く。奴隷の子として生まれ、ある年齢で奴隷にさせられ、ずっと理不尽な待遇の中で仕事を強いられる、しかも著者の場合(多くの奴隷女性がそうだったようだが)、白人の奴隷所有者の性的玩具にされる。逆らったり逃げたりすれば拷問は当たり前。気晴らしに殺しても誰も処罰しない。法律は一切、奴隷の権利を認めない。
そんな中で、なぜこんなに肯定的な人格を保つことが出来たのか、不思議である。「きっとフィクション」だと思われても無理がないほど、整った人格がそこにある。勿論、まったく一人ではなかった。彼女は幼くして両親には死別していたが、白人にさえ一目置かれる祖母(奴隷ではなく自由民)がいた。この祖母による薫陶が大きかったことと思う。
またこの本は、人間が歪んだ環境条件ではいかに歪んだ精神的存在に成り果てるかということをも明らかにしている。彼女の所有者は、誇張ではなく鬼や悪魔のような性格で、ひたすら彼女を不幸にすることに喜びを見出している。愛も憐れみも欠片も持ち合わせていない。
しかし彼女が逃亡に成功しアメリカ北部に入ると、そこでは白人は全く違った存在として彼女の目に映る。最終的に彼女の身を自由にしてくれたのも、人間として彼女に憐れみを覚えた白人女性だった。
つまり当たり前のことだが、人種ではないのである。「君たちは黒人を奴隷にして良い。彼らをどうしようと誰も文句を言わない」という法律が人々の脳内に浸透しきった時、人々は人間であることをやめる。だから、これらの人々を憎んだ所で、罰した所で、意味はないのだ。環境を改善していく以外に、人の道を整えていく術はない。
あくまでも比喩的な表現だが南部人を、その頑迷さや盲目ぶりから「中世的」とすると、北部人は「近代的」である。人によっては、限りなく「現代的」である。同じ国の境界線を一歩跨げば、そこには大きな時間の隔たりが出現する。そして人々は全く違った生き方をし、全く違った姿を見せるのである。
とてもスピリチュアルな本である。著者は最終的に自由を得たが、そこに至るまでの道はひたすら信じ続けること、諦めないこと、自分の心を悪に染めないことだった。彼女は力に対して力で抵抗したのではない。暴力に対して信仰で応えた。絶望の中で希望を保った。その背後には確かに、著者の親やその前の世代、更に多くの同胞たちの霊による助けがあった。
そこで思うのは、この虐げられた黒人奴隷たちの中に何と深く「神の慈悲」が根付いていたかということ。「必ず神が助けてくれる」そう信じて、勿論死んでいった者たちもいる中で、著者は「それでも必ず神が助けてくれる」と信じ続けた。
非常に興味深い、そして深刻な反転がここにある。神から見放されたような人々こそ、神を知り、信じていた。神に選ばれたと思い込んでいる人々こそ、神を知らず、恐れていた。
今の時代にこの本が蘇ったのは、神の慈悲にすがることをもう一度思い出すように、私たちに伝えようとしたためではないかと思う。今、多くの人はそういうことを考えない。また今は奴隷制時代とは違う。しかし別の過酷さがあり、別の理不尽、別の無慈悲がある。そんな時、多くの人は諦めるかまたは「自分の力で」と頑張るか、どちらかの道を採っているようだ。しかし第三にして真実の道は、恐らく著者がその身を以って示した生き方なのである。
深く心に刻んで、何度も思い返したい実話だった。