#12『オニババ化する女たち』
2004年の本。とても売れた有名な本だと記憶している。想像していたよりずっと内容が濃かった。論旨は「女性の体と心は密接に繋がっている。体を活かせないと心がこじれる。体を活かすにはセックスと出産である」。その通りであると思う。同時に、男の私は畏怖も覚えた。この本は感想をパスするかな…と思いつつ、しかし自分のために書いてみることとする。
「オニババ」とは何か?
このように著者は女性の肉体を見ており、私もその通りだと思う。勿論、世の中には妊娠出産の機会に恵まれない人もいる。そういう人たちに駄目出ししているのではない。
ここは難しい所なのだが、だからと言って「色々な生き方でいいんじゃない、産んでも産まなくても」とあえて著者が言わないのは、それでもやっぱり妊娠出産が女性にとってはかけがえのない体験だと考えているからだ。
女性は男性とは全然違う。これは私も年齢を重ねるごとに理解するようになってきた。思うに、男の体、男の存在には秘密がない。単純なのである。女性の体はそうではない。
心理学者のユングは女性性の特質として「命を産むもの」にして「死を寄越すもの」と言っている。それは世界中の神話において、母神や女神がまさにそのように描かれているからだ。我が国の伊邪那美も同様。万物を生み出した伊邪那美は後に、冥府から命を刈り取るものとして自己主張した。
こういう神話の常套的表現は何となく理屈としては「はあ、そうですか」と分かるのだけれど、奥深く得心が行くには多くの人生経験が必要である気がする。当然、女性蔑視や女性悪玉論ではない。もっと深い、女性の正体とでも言うものを古代人は看破していたのである。また同時に、それはどうしても語り継がずにはおられないほど、賛美や恐怖を伴う切実な感覚でもあったのだろう。 「そんなことはない、今や女性は自由だ」なんだと言った所で、女性の肉体が何よりその奥深さと謎めいた力を証明している、ということを著者は言いたい。
この「破滅的」という言葉に、太古の神話や伝承の源を窺い知るのである。
私はヒーリングとカウンセリングを仕事としている。お客さんはほぼ全員女性。やっぱり問題の奥深くに女性性の問題(=可能性)があることは分かっている。でもどうしたら良いか、という問いに簡単な答えはない。ただ女性はまずは自分の体を慈しみ、優しく接していくしかないと思う。
この男性原理の世の中で女性がなよなよと生きていくのは難しい。ジェンダーフリーの風潮は実は女性的な社会に向かっていかない。単に中性的・非性的な人生観を作ることにしか貢献していない。
女性が女性であることを受け入れ、愛し、楽しむこと。それは確かにこの世界で難しいことではあるものの、根本はやはり心がけ、そういう発想を持つことであると思う。
私は男なので、「そうなのですか、そうなのですね…」という感じではあるが、女性の皆さんからそう聞くことは多い。私なんて姉が三人もいるのに、どうしてこんなに疎いんだか。それはきっと、親が愛と性を子供に隠してきたからだと思う。
感覚的に分かる人には「その通り!」、そうでない人には飛躍と思われるかもしれないけれど、愛と性を隠さずそのままにしておくと、自然とスキンシップが多くなる。そんな両親の姿を見て「いいな、男女がくっついているのって」と子供はきっと感じる。
思い返すと私は両親が触れ合っている所を、人生で一度しか見たことがない。小学生の頃だったが、父と母が手を繋いで歩いていた。それを後ろから見ながら私と姉は恥ずかしそうに笑ったものだった。その数分間だけが、私が見た両親の最初で最後の触れ合いだった。
当然そんな家だと、親が子に触れることもない。つまり夫婦の仲の問題なのではなく、人間との距離感の取り方そのものに関する問題なのだ。
日本はどこもそんな感じらしい。
ちなみに私は家族にわりとぺたぺた触る。昔は私も遠慮と抵抗があった。しかしこの仕事をする中で、触れることの大切さを学んだ。また心が解放されていく中で、触れることが怖くなくなった。触れると、言葉を超えて深い所で大きな力を得ることがある。出来ることなら皆にぺたぺた触ってあげたい。でも世の中的に、そこはなかなか難しい所。本当にその人が心の底から助けを求めている時に取っておいている。仲の良い人だと、もうちょっと敷居が低いのだけれど。
このぺたぺた触るということが、特に幼少期においてどんなに大きな影響を人格形成に及ぼすことか。
15年前の本なので、だいたい数字を補正して下さい。
自分の家族に照らして考えても同意する。私は観念では親を大切にし慕ってもいるけれど、体感的にはどうしても他人の感が拭えない。一生拭えないと思う。この人たちって孤独を感じないのかな、と親を見ていると思う。でも多分、孤独を感じる繊細さがそもそもない。
痛みも切なさも愛欲も快感も、全ての肉体的体験が心の深層に作用する。都合の良い感覚と体験だけ受け入れ、他は除外するとどういうことになるか。
こういうことになるそうだ。
これは分娩だけに留まらないと思う。子供が頑張っている時、苦しんでいる時、泣いている時に「無痛」という距離間を取ってしまう母親もまた同様だろう。痛みを引き受けてこそ整う心の基礎というものがあるのだろう。
女性の体は私などにはつくづく不思議である。分からない。分かろうという積極的な意志が自分にないことに気付く。それは多分、私が母との間に肉感的な交流を幼少期に持つことを許されなかったためなのだ。
この本を読みながら、女性の難しさを感じると共に、女性に寄り添い女性と向き合うべきであろう男性の難しさも、我が身に感じた。私は普通の男性よりは女性の体と心を察し、思いやれる方ではないか…と思っているが(勘違いの可能性は大いにあります)、それでもなお、女性は遠い所にある。多分、一生手の届かない遠い所にある。それくらい深く、それくらい自分には何かが欠けている。
この本、大いに売れただろうけど、伝わったのかな、と読みながら思った。新書で出すには内容が濃く深すぎる(褒めている)。それと著者の顔写真とか産婆さんの顔とか、色々、視覚的、感覚的な情報が必要なのではないかという気がする。やはり説得力が違うから。
妊娠出産に関する本を過去に何冊か読んだけれど、心の奥深くにぐっと入って来る本はそういう作りだった。本の形なんて形と言えばそれまでだけれど、これくらいの内容、生命と幸福に密着した内容となると、特別な装丁を施した方が、本も喜ぶのではないかなあと思ったりした。
著者の女性讃歌の心を、強い風のように感じる一冊。
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