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今でも習慣に残る学習法~集中力の小爆発を断続的に

 ここ数年、毎日小説やエッセイを書いている。それに加えて読書や文体模写、物理の勉強も行っているが、これらのやり方が、他の人から見れば相当変わっているのだと自覚している。どのように変わっているか、ここで、朝のルーティーンを例に出してみようと思う。

 週の半分くらいは近所のカフェで朝を過ごす。まず、カフェで注文を出してから、フローベールの「ボヴァリー夫人」を十二ページ読む。続いて、「記憶の深層」を十二ページ続けて読む。すると、このころに注文した紅茶とパンケーキとサラダが揃う。しかし、それらには手をつけず、机の上に並べた本や原稿用紙、万年筆の向こうに置いている。気になるがまだ食べない。

 次に「モダニティと自己アイデンティティ」を四ページ読む。これは難解な本なので、少ないページしか読まない。次いで、「ボヴァリー夫人」の文章を五六分間模写する。文章を読んで一度暗記し、それをまるで自分が初めて書いているかのように書く。そこでようやくサラダを食べ、アプリに食事の記録をつける。これが休憩に相当する。

 サラダを消化している間に、シャーリージャクソンの「なんでもない一日」を八ページ読み、「母は不幸しか語らない」も八ページ読む。これで午前の読書は終了で、パンケーキを紅茶の香りと共に味わう。口の中に広がるバターとメープルシロップが混ざった生地の味わいは、幸せな気持ちにさせてくれる。

 食べ終えると、現在執筆中の、猫が主人公の小説を四百字原稿用紙に下書きし、そのまま続けてnoteに連載中の潜水艦を舞台にしたヒューマンドラマを二百字執筆する。これが終わると帰る支度をする。ここまで食事を含めて一時間半くらいかかっている。
 


 このように、コマ切れに読書・執筆をしている。しかも食事も分けて食べながら。周囲の人から見れば不思議な光景に違いないが、私なりの理由があるのだ。

 これは、毎日欠かさず続けるための工夫であり。このようなやり方を「サンドイッチ方式」と名付けている。この方式だと、毎日やる事が苦もなくできるのだ。

 毎日私は、十数冊の本をそれぞれ四から十二ページ読み、原稿を下書きで千文字程度、パソコンへの清書を六百から千文字程度行っている。書く量はかなり少ないのは自覚しているが、この数年間、毎日欠かさず続けられていることに意義を感じている。そのことを重視し、それが可能になる方式として「サンドイッチ方式」に辿り着いたのだ。これはやらない日を作らないために試行錯誤を経て身についたものである。

 ルーティーンをやらない日を作る事は非常に怖い。意志の弱い私には、一旦自分で決めた分量を実行できないと、心が折れ、そのまま「どうにでもなれ」と思って辞めてしまう恐れがある。とても挫折しやすいのだ。加えて、集中力が続かず飽きっぽいという面がある。脳科学的には九十分というのが集中を保つ限界とのことだが、私には大学の講義の九十分はおろか、六十分の集中も難しい。すぐにテキストや目の前の問題から意識が上滑りするのだ。

 この特性を考慮した結果、学習や読書は短時間集中して行い、切り替えて別の課題に取り組む、というのがスケジュールを組み方になった。細かいスケジュールを複数入れて、合間にちょくちょく休憩する。この方式は大学受験生の頃に身についた。
 


 受験生の時、受験科目の多さを逆に利用していた。多くの受験生は科目数が多いことを嫌がる。勉強しなければならない項目が増えるからだろう。しかし、私にはそれがありがたかった。科目数が多いという事は、一科目のミスを他の教科で取り返しやすいので、ミスをしてはならないというプレッシャーから解放される。それに、少ない受験科目だと、その科目だけを長時間勉強してエキスパートのようになった受験生と勝負しなければならない。長時間ひとつの科目を勉強するのができない私にはとても無理な話だ。

 私が選んだ大学は、センター試験が五教科七科目必要で、二次試験も英数に加えて理科が二科目必須だった。一見大変そうに見えるが、一日の勉強時間が周囲の受験生よりも少なかった私には、この科目数の多さは逆に有利に働いた。各科目、バランスよく点を取れば高得点でなくても合格するし、そもそも科目数の多い学校は受験生から嫌われるので競争倍率も下がる。

 予備校での授業が始まるまでのどのように過ごしていたかというと、夏季や冬季の講習会シーズンを例に挙げると、まず、授業は午後のものを選択していた。他の時間は自己学習に当てる。まず、朝一で予備校に入り、自習のため食堂に入る。こまめに休憩しておやつや食事を摂りたいので、融通がききにくい自習室よりも食堂で勉強する方が好きだった。それに自習室はしんと静まり返っていて、却って落ち着かない。周囲に適度な雑音のある食堂の方が集中できるのだ。そこでは、昼食の混雑時でなければ自習可となっていた。食堂ではおやつとドリンクを机の少し離れた場所に並べる。一定量の勉強を終えたら食べていいと、自分に言い聞かせながら勉強をした。それから、まずは頭をそれほどフル回転させなくても解ける問題から取りかかる。大抵センター試験用の地理だった。それを十分か十五分ほど勉強し、次に二次試験用の数学をじっくり三十分かけて解く。続いて、苦手の古典文法を十分ほど学習し、終わったら用意していたおやつを食べる。おやつは小さなものを二三個用意するが、決して勉強しながら食べないというルールを作っていた。あくまで、苦手科目の学習後におやつや食事タイムを設け、自分へのご褒美として食べるのである。

 二次試験用の英語長文問題を三十分かけて解き、解説と比べる。これが終わればセンター試験用の生物を二十分勉強する。続いてセンター試験用の漢文も二十分かけて解いて、お昼ごはんにする。この時間帯はまだ食堂が混み始めていないので、並ぶ必要がなく、スムーズに食券が買えたものだ。よくカツカレーを食べていた記憶がある。三百三十円くらいだったと思う。三十年以上前の話だが。

 食べ終えて、また一二科目を二三十分かけて勉強すると、食堂が混み出してくるので、ルールを守って自習室に移動するか、授業の行われる教室が開いていれば、そちらに移動する。午後の授業が終われば、その日の疲労度で帰るか食堂で勉強するかを決めていたとは思うが、午前よりは集中できないので、その日の授業の復習だけをして帰る事が多かったと思う。

 このようにして、一日予備校に居たが、特に午前の食堂での自習時間にパフォーマンスが最大になるように気を配った。午前さえしっかりやっておけば、その日一日気分よく勉強ができたからだ。ポイントは三つあった。

 ひとつは、この科目を終えたらおやつか食事が摂れると、馬に人参を与えるように、楽しみを目先にぶら下げて勉強していたという事。二つ目はできるだけ、勉強を細切れに、できれば理系科目と文系科目を交互に学習するようにした事である。なるべく異なる頭の使い方をしなければならない科目を交互に入れることで飽きを防ぐようにしていたのだ。最後に学習時間はあくまで目安であって、数学一問を解答し解説を読んで修正するまでに三十分かかるとすると、たとえ三十分以内に終わっても、次の問題を入らず、小さな休憩時間を長めに取った。これによって、どれくらいの時間で問題が解けるのかが分かるし、頑張れば休憩ができるというモチベーションにもなる。

 このようにして、集中力を持続させるというよりは、小さな集中力の小爆発を繰り返すことにより、学習効果を上げる事を狙った。この方式だと、他の同レベルの受験生が一日十から十二時間机に向かっていたのに対し、私は一日四から七時間くらいの学習時間で済ませる事が出来た。

 学習時間を短縮できるというメリットがあるサンドイッチ法だが、この方式は人を選ぶし欠点もある。これはあくまで集中力が続きにくいタイプの受験生向けである。勉強を短時間で終えて切り替えるというのは、仕事で言うとマルチタスクをしているのと一緒で、本来の脳の働きに反しているため、負担が大きい。学習内容をスイッチするに伴い、能率は必ず低下する。脳科学の知見によれば、前の課題の記憶が次の課題に取り組む際に脳の働きを阻害するというのだ。前の課題をもっとやり遂げたい。それが、集中力を低下させるらしい。しかし、私はその犠牲を払いつつも、やり遂げたい気持ちをも利用していた。わざと面白そうな問題の手前で課題を中断し、自らを渇望状態に置いたのだ。たとえば、数学などはもうすぐ解けるという状態で、敢えて止めることもあった。解き方が閃き、軽い興奮状態に陥り、さあこれからが美味しいところだ、と言うところで苦手な現代文などに取り組む。そうすると、さっきの続きが解きたかったのに、と言うモチベーションによって苦手科目も早く仕上げようという気になる。

 効率は決して良くないが、サンドイッチ法は自らエネルギーを生み出して、前へと進み続けるための工夫だといえる。続けるための工夫が、今の執筆や資料集めのための読書生活にも活きているのだ。いつも目の前には小さな課題だけがある。執筆の気が向かない日もある。そんな時は
「まずは、これをほんの少し書くだけで良い。そうすれば、勝手にやるべき事が次々とできるようになる」
 と自分に言い聞かせて、焦らずに、精神の集中と弛緩を繰り返しながら、今日も物語を紡いでいる。

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