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「梅」

カタカタと揺れる窓の近くで
垂れ流しのTVをぼんやりと見た。
お父さんはぽりぽりとなにかしらの菓子を食べている。

詳しいことを聞いてこないが
全く無関心というわけではない夫婦のそばは
居心地がよかった。

前から夫婦と住んでいたかのような
そんな気分で、自分が座る場所や部屋の景色が、
馴染みあるもののような気さえした。



インターホンが鳴り、お母さんが
「はーい!」
と大きな声を出して、よっこいしょ、と
立ち上がり、小走りで玄関へと向かう。
少し緊張する。玄関へと続く廊下を、覗き見する。
ちらっと見えたのは、2人の男性のシルエットだった。

───

「ごくたまにあるんです。わかーい記憶喪失の方が発見されるっていうのが」
白髪混じりの頭の男がお茶を啜る。もう1人の若い男は緊張しているのか、鉄仮面でじっとしている。夫婦と僕、警察2人がテーブルを囲む。お父さんは黙ってTVを消す。

窓の外の、風の音だけが聞こえる。
昼になる前、太陽がまだ東側にいる時間。
照らされている、明るい山々が見える。

「一旦警察で処理してそのあと一時保護、そのまま身元わからずでしたらそのまま、施設での保護か、生活保護の方で、ちゅー形になるかな。身元不明で記憶ないっちゅうのは認知症の方が多いんですがね、若い方は珍しいんですわ。たまーにあるんですが、自分は初めてでね」
白髪混じりの男はくだけた口調で話し、
「で…、どう?」
とこちらに振る。僕はというと
「なにも覚えてなくて…」
ドラマかなんかで見たみたいな言葉しか出てこない。口角がひきつってしまう。
「えっと、気づいたらこの…そのあたりに寝転んでて」
窓の外を指差す。指が震える。警察の視線が痛い。突如、僕が自分の確かさを証明できるものを何も持っていない事実が襲ってきて、心が動揺する。
若い方の警察が聞く。
「服装は。どういう服装で、何も…持ってなかったんですか、財布とか携帯とか」
「あ、はい。ふつうのシャツとスラックスで…なんかいろんなところ擦り切れてて、ポケットにも何も、入ってなかったです。多分、なんか山の中歩いてたんじゃないかな…わかんないけど」
なんとなく言葉を継ぐ。
「山の中?」
と白髪頭が聞く。ズズッと胸を押されたような感覚。
「あ、いやなんか、そんな感じなんじゃないかなーってなんとなく…。何も覚えてないです」
フウン、と言う男。気まずい沈黙。
なにか、弁明するような口調で話しながらも、結局自分は記憶喪失なのだという事実がどうしようもなく、腹に落ちてきただけだった。

風が強い。ガタガタ!と窓が鳴る。

警察はそれからいくつか質問をしたが、僕のはっきりしない返答に有益な情報は得られないと諦めたようだった。何か劇的なものを期待されていたようで、適応的な自分がなんとなく申し訳なくなる。すみません…と呟くと、いやいや…と否定される。惨めさが、重くのしかかる。


警察はまた明日来ることになった。僕はこれから警察の保護を受けるか、新たな戸籍を取得して自力で生きていくかの選択をしなければいけない。

─────
夕方、お父さんはTVを見ている。現実離れした気持ちを持て余し、言葉にするほどの活力もない僕も、お父さんと同じようにぼんやりとしている。なんとなく、お父さんの、白髪頭を眺める。向こうのお母さんはというと、台所と食卓の間の、腰ぐらいの高さのチェストのあたりで、それの埃を拭き、ちょんと乗った小さな一輪挿しの水を替えている。エプロンの、紺色のギンガムチェックが、くっきりと脳裏に残り、なんとなく目で追いかけている。一輪挿しには小さな花が生けられている。
「それは梅?」
存在や輪郭すらぼんやりとした状態で、見たままの光景が口をついて出る。
「そっ!梅!もろてん。季節やろー」
あ。梅だ。ぱっと開いた花弁と、こちらに向けられたお母さんの朗らかな微笑みが、よく似ている。多分僕の本当の母親は、そんなふうにニコッとした、2月の空のように澄み切った笑顔を見せてはくれないんだろう。そんな気がした。
「今は2月ですね、確かに…」
部屋の壁にある(とその時点でわかった)カレンダーを見ながら、つぶやく。と、その時電話が鳴る。
「いや、こんな時間に誰やろ」
お母さんがパタパタと電話口へ行く。お父さんは痰がからんだ咳払いをひとつしてから、話しかけてくる。
「そういやあ、梅の歌があったな。もう、若い子は習わんのか?」
「いえ、確か…」
確か、そういう和歌があったはずだ。
確か、『東風吹かば…』
「あんた!お兄やんちょっと!」
お母さんのよく通る声で、はっとする。向くと、
「知っとる人から連絡きたってさ!」
お母さんが驚いたような、泣いてしまいそうな顔でこちらを見ていた。

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