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映画『動物界』 から「人間」と「非人間」の境界を問う (感想・考察)

 私がこの映画を知ったきっかけは、地元のシアターのSNSでの投稿だった。鱗に覆われた顔。こちらを見つめる瞳。そのポスターの構図は、私がフィールド調査中に好んで撮っていたゾウのアップ写真にとても似ていた。

 ゾウに見つめられたとき、私は「お前は誰なのか」と問われているように感じる。それは、見つめる誰かと私の関係を問うものであるとともに、多くの動物にとっては挨拶のようなものでもある。そのとき、私は応答を迫られる。

 その関係へと誘うような魅惑的なポスターには、『動物界』というタイトルとともに、「この世界では、人間は、動物になる」と書き添えられていた。人と動物の関係を中心とした多様な生物種の交錯について文化人類学的な研究を行っている私は、瞬時に「動物になる」人々について記述した民族誌や、人間がウイルスや菌との関係の中で生成する様相を論じた論文を想起した。

 この映画は絶対に観る。公開初日の初回上映で観る。そう自分に誓ったのが、日本での公開を三ヶ月後に控えた8月のことだった。

 公開前に出た情報は少なかった。主演のポール・キルシェとロマン・ドゥリスのインタビューと、映画評論家や動物関連の研究者のコメントが公式ホームページでアップされたのみ。SNS上で「ボディ・ホラー」という形容を見たときは、若干の不安を覚えたものの、多くの専門家が「感動」や「家族愛」と評しており、期待が膨らんだ。

 公開当日、自宅から一番近くの上映館にバスで向かった。フランスでは100万人以上を動員し、第49回セザール賞で最多12部門にノミネートしたという。だが、朝一番の上映の観客は十名程度だった。同日に公開となった劇場版『進撃の巨人』の最新作「完結編 THE LAST ATTACK」は盛況のようだった。

 先に、観終わった感想を言うとすれば、最近観た映画の中で一番良かった。とは言っても、私がここ一年で観た映画といえば、タイでのフィールド調査中に観たタイ映画がほとんどであり、だいぶ偏りがあるということは述べておく。それでも、これまで観た映画の中でも好きな部類に入る。あと四回くらい観たい。

 私がこの映画を見ながら考えていたのは、「人間」と「非人間」の境界についてだ。ここでは、序盤と終盤に登場するポテトチップスと、「人間」と「非人間」の境界を軸に『動物界』を振り返ってみたい。なお、本稿は鑑賞後の冷めやらぬ高揚感の中で記述したものであり、もし二回目、三回目の鑑賞をしたらまた別の議論が喚起されるかも知れない。それくらい、様々な角度から見ることが可能な映画だった。

※以下、ネタバレを含みます


あらすじ

近未来。人類は原因不明の突然変異によって、徐々に身体が動物と化していくパンデミックに見舞われていた。"新生物"はその凶暴性ゆえに施設で隔離されており、フランソワの妻ラナもそのひとりだった。しかしある日、移送中の事故によって、彼らは野に放たれる。フランソワは16歳の息子エミールとともにラナの行方を必死に探すが、次第にエミールの身体に変化が出始める…。人間と新生物の分断が激化するなかで、親子が下した最後の決断とはーー?

動物界公式サイト(https://animal-kingdom.jp/)


1.  抵抗のポテトチップス

 この物語で印象的だったのは、ポテトチップスかもしれない。

 冒頭で、学校に行かずにゲームに勤しむ息子エミールを連れ出し、車で妻ラナの病院へと向かうフランソワ。彼はエミールが食べるポテトチップスに対して、添加物まみれで健康によくないと言う。しかし、エミールは父親への抵抗としてポテトチップスを食べ続ける。フランソワは抵抗するなら親にではなく、制度(システム)に対してしろと言う。

 フランソワが制度への抵抗に言及したのは、おそらく「新生物」と呼ばれる動物化する人々に対するフランス政府の対応をよく思っていないからだろう。特にラナが強制的に病院へ連行されたことに納得していない。

 『動物界』はエミールとフランソワを中心とした物語であり、奇病により動物化する人々に対するフランス政府による対応の全体像が描き出されているわけではない。しかし、断片的ではあるものの、スウェーデンが共生を目指した方針を取っているのに対して、フランス政府は強制隔離の方針を取っていることが示されている。

 「新生物」に対するフランス政府の対応の特徴は、分断と統治だと言えるのかもしれない。動物化する人々の強制連行と病院や施設での隔離は、「市民」と「新生物」を分断させる。そして、「新生物」を強制的に統治しつつ、「新生物」から守るという名目で「市民」をも統治の対象とする。それは、新型コロナウイルス感染症によるパンデミックで私たちが経験した生政治(biopolitics)のようだ。当時、ロックダウンなど国家による国民の生活への多大な介入が行われた。これを感染予防として歓迎する人々がいる一方で、独裁的な権力の行使であるとして危険視する人々もいた。

 フランス政府の対応に対して、フランソワはエミールに愚痴をこぼしてはいるものの、明確に抵抗しているわけではない。ラナが病院での治療を受ければ「治る」可能性があることを信じている。

 しかし、ラナを乗せた輸送車の事故から全ては変わり始める。あまりにも早い捜索の打ち切り。「新生物」に対する心無い扱い。「新生物」を駆除しようとする人々。そうした「新生物」に対して差別的な態度をとる人々と出会う一方で、フランソワは動物化した人々とともに生きようとする人々にも出会う。その中で、フランソワの価値観や態度も変わっていく。

 終盤、エミールの動物化を隠せなくなり、フランソワは警官を気絶させてその場を後にする。パトカーに追われながら、フランソワは森へとハンドルを切る。そして、エミールの食べ残していたポテトチップスを掴んで食べ始める。その顔は、どこか清々しい。フランソワが、制度に抵抗することを決めたことの現れだと読み取れるだろう。

 フランソワは、妻や息子が強制的に連行され、施設で隔離されることはおかしいという結論を出す。このとき、ポテトチップスは、制度(システム)=構造的差別に対する抵抗の手段となった。

 フランソワにとって、食べ物は「人間」の身体を作り出すものだ。フランソワは、ポテトチップスという添加物たっぷりの望ましくない食べ物によって、望ましい存在だけを「人間」と定義する制度に抵抗する。つまり、ポテトチップスによって身体を作り替えることで、制度がカテゴライズした「人間」を逸脱し、動物化した「新生物」と同様に自分を「非人間」へと変容させたのではないだろうか。

ポテトチップスは、このような「人間」と「非人間」の境界を揺るがす役割を担っていたと思われる。

2. 人間と非人間の境界

 「人間」と「非人間」についてもう少し考えてみたい。この映画は、奇病により「人間」が「動物」になる物語だ。けれども、そもそも人間とは動物であり、私たちは動物ではなかったことなどない。

 「人間」と「動物」、もしくは「人間」と「非人間」という相互補完的なカテゴリーが、しばしば恣意的に作り出されてきたものであることは既に多くの研究で論じられてきた。小難しいかもしれないが、ややアカデミックな議論から眺めてみたい。

 主に近代西洋における人間と動物を二項対立的に捉える見方において、「人間」は動物よりも優れており、「動物」は人間よりも劣っているとされる。ここでは、人間以外の動物に劣等性を与えることで、「人間」が定義づけられている。本来であれば、明確な境界など存在しない「人間」とそれ以外の「動物」という「非人間」の間に線を引くことでしか、私たちは何であるのかを認識することが出来なかったのかもしれない。

 「動物」を「人間」とは異なる存在とすることで、私たちは動物を、搾取したり、殺すことが可能な存在として扱うようになった。これが現代の工業型畜産における劣悪な環境下での動物飼育や、食肉の普及にともなう残虐な屠殺へとつながっていることは、動物解放論や動物の権利運動でも言及されてきた。

 このような「人間」と「非人間」の間に設けられた恣意的な境界は、特定のカテゴリーに属する人間を「人間未満」の存在として見なす際にも用いられてきた。例えば、フェミニズム研究は、男性を「人間」の標準として設定することで、女性が構造的に差別・排除されてきたことを明らかにした。先住民研究では、先住民が「非人間」と見なされ暴力の対象となってきたことを論じている。いまも世界中で起きている戦争や虐殺では、相手国の国民を「非人間」として殺害可能な存在と見なす言説が蔓延っている。

 『動物界』という映画において、「動物」になるということは、身体的・精神的な変容により、これまで定義づけられてきた「人間」の枠を逸脱する存在になるということだ。徐々にオオカミの身体的特徴が現れはじめるエミールが体験するのは、奇病が発生する以前の「人間」の範疇では捉えることのできない人々が、「新生物」や「獣」という「非人間」として扱われるようになる過程だ。エミールとフランソワが動物化する身体や行動を隠そうとするのは、「非人間」に区分されることで、暴力や権力による管理の対象とされることを避けるためだ。

 鳥人間のフィクスは、強制収容され、鳥化する顔を矯正するための手術を受けさせられた。しかし、手術では鳥化した部分が無理やり取り除かれたためか、顔に大きな傷を負っている。フィクスが経験したのは、逸脱した存在を認めず無理矢理にでも「人間」に戻そうとする一方で、逸脱した存在は道徳的に扱わなくても良いとする矛盾しながら作用する二重の暴力だと言えよう。

 このように、エミール、フィクス、ラナなどの動物化する人々は、人間社会における「人間」から逸脱した存在として強制的な収容や矯正の対象となるだけではなく、「動物」として殺害可能な対象にもなるという、複雑な状況に置かれている。

 一方、『動物界』においては、「新生物」以外にも、社会と距離のある人々が登場する。例えば、エミールが転校先で知り合ったニナは、他の人々とは異なることに生きづらさを抱えてきた。しかし、ADHDと診断されたことで、自分を受け入れることが出来るようになったという。ニナは、自分の経験を共有することで、動物化を受け入れることができないエミールが自分と向き合うことを後押しした。ニナの他にも、憲兵隊軍曹のジュリア、セイウチに動物化する妹を匿うナイマなどと触れ合うことで、エミールとフランソワは徐々に動物化を受け入れていく。

 その中で、エミールの父親であるフランソワは、動物化する家族を愛しながらも、「人間」という枠組みに囚われていた人物だと言えよう。フランソワは、妻ラナを変わらず愛しているものの、動物化の進んだラナと向き合うことを恐れるようになる。彼が夢見るのは、元の家族に戻ることだ。フランソワの考える「人間」は、決して他の生物種や環境から孤立して生きる存在ではなく、食べ物や環境によって作り出されるという意味で関係的な存在だ。しかしながら、動物化するエミールに理性的であるよう言い聞かせたり、動物化を抑える薬を飲むことを勧める様子から、それは「人間」という枠組みの内部に留まっていることがわかる。

 だが、終盤では、エミールのオオカミ化した爪を切り落とすことが出来なかったり、エミールが「新生物」として駆除されそうになる事態を経験する。構造的暴力を目の当たりにしたことで、これまで囚われていた「人間」の概念から解き放たれたのだろう。フランソワは、これまでは否定してきたエミールに芽生えつつあるオオカミの能力を信じ、動物化しても息子であるエミールの幸せを願って森へと送り出した。

 「人間」と「非人間」の分断を作り出すことで生じる構造的な暴力、「人間」を逸脱する人々が紡ぎ出すささやかな希望、実際の関係の中で揺さぶられる「人間」の概念。それらがこの物語の根底にあるように思われる。

3. 動物の身体を生きる

 『動物界』において動物になることは、こうした境界の問題に直面することであるとともに、身体が変容することでもある。それは、見た目が鳥、豚、オオカミといった「動物」に変容するのみならず、能力にも変化をもたらす。

 エミールは身体のバランスが変わりつつあるのか、徐々に自転車に乗ることが難しくなっていく。フィクスは言葉を話すことが出来なくなる。こうした人間に特徴的な能力を失う一方で、彼らは人間を超える能力を得る。ここでは、人間が言語を操れるから他の種よりも優れているということは全くなく、人間を含む多様な生物が身体的な差異とともにそれぞれに独自の能力を発展させているという事実が思い出される。

 エミールは、夜にニナに電話をしながら、自然が奏でる美しい音を耳にする。フィクスは、練習を重ねることで自由に空を飛べるようになる。

 こうしたシーンでは、動物に変化することが、彼らにとって必ずしも失うことばかりではないことが示唆されている。特に「人間」に虐げられたフィクスが「鳥」として生きようとすること、飛べるようになった喜びをエミールと共有すること、その自由な翼でエミールを守ったことは、変化の中でフィクスが得たものの大きさを物語っているように感じる。

 ここでは、輪郭の明確な「人間」像から、奇病によって輪郭がぼやけ、変容していく「人間」像が提示されているように思う。文化人類学におけるマルチスピーシーズ民族誌では、まさに「人間」ははじめから人間として存在する(human-beings)のではなく、多種との関係の中で生成される(human-becomings)ことが議論されてきた。『動物界』でも奇病を引き起こす何かが身体を作り出す多種の関係に入り込むことで、従来「人間」に特徴的だと考えられてきた身体を「動物」に作り変えている。

 個人的なことだが、私はタイでの長期調査中に新型コロナウイルスに感染したようで、いまも後遺症に悩まされている。その中で、自分の身体でこれまでのように読み書きしたり、考えたり、運動したりすることが難しくなった期間があった。そのとき、自分の身体との距離を感じるとともに、人間の身体がウイルスによりこうも容易く変化するものなのかと驚いた。動物化しないまでも、私たちの身体は関係の中で常に変容しているのだ。

 また、私が研究を行っているタイ東北部に暮らすクアイのゾウ使いたちは、ゾウを理解するために日々観察を行なっている。ゾウ使いの身体は、ときにゾウとウイルスや細菌を共有するものの、ゾウのような巨大な身体に変容するということはもちろんない。しかし、ゾウ使いたちと一緒に暮らしていると、彼らが音や風の変化を敏感に感じ取っていることに気づく。彼らはゾウたちが感じる世界を、人間の身体で生きようとしているのだ。それは、確実に彼らの能力を変容させ、クアイのゾウ使いにゾウの身体を生きることを部分的に可能としている。

 そうやって、私たちは、誰(何)と関係を取り結び、誰(何)として生きようとするかによって、常に変容し続ける能力と身体を生きていることを、『動物界』は思い出させてくれる。

4. 問題とともに留まること

 私がこの映画をとても楽しみにしていたことは既に述べた通りだ。当初は、公開されていた情報が少なかったことから、フェミニズム科学論者のダナ・ハラウェイの著書『Staying with the Trouble』に出てくる「カミーユの物語」のようなストーリーが展開されるのではないかと予想していた。

 「カミーユの物語」では、21世紀のはじめに「コンポストのコミュニティ」が出現し、多種の環境正義を掲げた実践を発展させていく。その中で、環境に大きな負荷を与えてきた人口を数百年に渡り少しずつ減らしてきた。また、全ての新生児には三人の人間の親がおり、妊娠した親は子の「共生動物」を選ぶことになっている。この「コンポストの子ども」には共生動物の遺伝子が組み込まれ、その種が絶滅したとしてもその特徴を受け継いでいく。そんな物語だ。

 実際に観てみると、「カミーユの物語」と重なる部分もなくなないが、ストーリーとしては異なっていたように思う。むしろ、私が現在執筆している博士論文のイメージと近いような気がした。それもあり、ストーリーが展開していく中で私が気になったのは、どのようにこの物語が終わるのかということだった。SF的な映画であればなんらかの解決策が提示されるかもしれないし、ファンタジー的な映画であれば人間の社会と隔離された場所での元人間たちの平和な生活が描き出されるかもしれない。実際に人と動物のままならない関係の中で研究を行う私は、そうした「ハッピーエンド」が描き出される可能性を危惧しながら映画の終盤を鑑賞した。

 『動物界』のラストは、奇しくも「カミーユの物語」が収録された著書におけるハラウェイ主張の一つである「問題とともに留まること(staying with the trouble)」であったように思う。

 終盤、エミールが「新生物」であることが友人にバレ、「新生物」の捜索と駆除が行われた。エミールを助けるためにフィクスは死んだ。エミールがたどり着いた「新生物」が寄り集まって暮らす場所にも捜索の手が回った。「人間」として保護されたエミールは、すでに署名をするのが困難であり、フランソワは警官を殴って逃亡を試みる。親子は和解するものの、パトカーはすぐ側まで迫る。フランソワは、息子の「動物」の能力を信じ、森へとハンドルを切った。エミールは森の中を一人駆け抜けてゆく。

 映画のラストは、何かの明確な解決方法や、安易な幸せを提示するものではない。だからといって絶望を示すようなものでもない。何も解決していないし、性急に答えを出そうともしない。これからどうなるのかもわからない。それでも何もしないわけではない。

 わかりやすい解決方法に飛びつくことで、状況を悪化させてしまったり、取り返しのつかないことになってしまうということは、現実においてもしばしば起きることだ。例えば、気候変動や世界の貧困に関する問題はまさにそうした厄介な状況に陥っていると言えよう。環境を破壊しないエコな発電が求められ、その解決策として太陽光発電が注目されたものの、ソーラーパネルに含まれる重金属が環境汚染につながったり、パネルの設置のために森林破壊が生じたりしている。

 では、どううしたら良いのか。安易な答えに飛びつくのではなく、まずはその厄介さの中で考えること、行動すること。それが「問題とともにとどまること」である。フランソワとエミールは、問題に留まりながら、まずは生きることを決断した。それが彼らの抵抗であり、オープンエンドなこの物語の結末だと言えるだろう。

おわりに

 こんなにも『動物界』を語りたくなってしまうのはなぜだろうか。

 それは、私が文化人類学の視座から人と動物の関係について研究しており、作品に含まれる社会的なメッセージを多分に受け取っているということがあるだろう。『動物界』は、人間社会の物語であり、構造的暴力の中で非人間とされるものたちの物語であり、政治的にも身体的にも「人間」が「動物」になる物語でもある。これが『動物界』を様々な視座から見ることを可能としている。

 しかし、それだけではなく、美しいフランスの自然、そこに入り込む資本主義的な人工林、ロマン・ドゥリスとポール・キルシェの引き込まれる感情的な演技、それぞれの役が引き受けている人生の物語、特殊メイクとVFX(視覚効果)が生み出すリアリティなどが紡ぎ出すストーリーに引き込まれたことも大きいだろう。フランスでは100万人以上が動員されたことも納得の作品である。

 同日に公開された『進撃の巨人』は未鑑賞ではあるが、この作品もまた人間社会に設けられた「壁」という断絶や境界にまつわるストーリーだと理解している。私たちはいま、様々な断絶とどう向き合うかを真剣に考えなければならない時代を生きている。身近な場所では、「男」と「女」というカテゴリーの間に引かれた恣意的な境界と、それにまつわる様々な差別や搾取が問題となっている。世界に目を向けて見れば、いまも「民族」や「種」といったカテゴリーによって暴力や殺戮の対象となっている人々や動物がいる。そんな時代に、『動物界』という作品は、「人間」とはなんであるのかを問うている。

 『動物界』における動物化しゆく人々に見つめられたとき、私たちは誰(何)であるのだろうか。問われた私たちは、問題とともに留まりつつ、何らかの形で応答することを迫られている。



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Tomoko Oishi
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