比喩としてのコロナウィルス 〜感染症と可塑性〜
日本語には、同音異義語というのがたくさんある。同音異義ということは、もし単体で漢字(※1)がなければ、その違いを区別することは出来ないということだ。それゆえ、あらゆる同音異義語は、それが話されるときに互いにその意味を反響し合う。それらの言葉は、かつて一つであったものが分裂した半身(半神※2)なのだ。
例えば、「良心」と「両親」、「激情」と「劇場」、「協会」と「教会」と「境界」などなど。
日常でも、「死」と「四」の繋がりは、多くの場面で意識されている。
「鼻」は、よく心理学で男性器の象徴として登場するが、その同音異義語である「花」は、よく女性器の象徴として詩作などに登場する。
今日、コロナウィルスの影響で、スポーツイベントが軒並み中止・延期に追い込まれているのだが、それには「観戦」と「感染」が同音異義だから、なんてことが関係あるのかないのか、などとぼんやりと思ったりする。もちろん、これが世界規模での施策であることは分かっているが、日本語ではまたそれとは違う場所で、意味が響き合っているのではないかと思うのだ。
感染は幹線とも同音異義なので、新型はやはり新型の幹線となるのだな、と思ったり、駅はたくさんあってもほとんど新型の幹線が止まらないわたしの住む静岡県で感染者があまり出ないのはそういうことに違いなどとぼんやりと思ったり。試しにJR東海の職員さんに「しんがたのかんせんがとまりませんね」と話しかけてみたらどちらの意味に捉えるのだろう、などと空想してみたり。これはまあ冗談みたいな話だけど。
コロナウィルスの報道が盛んになって以来、マスクを着用している人が急増した。皆がしているマスクには、「伝染りたくない」という気持ちに重なって「映り(写り)たくない」という気持ちがエコーしているように見える。
「伝染る」とは、「映る(写る)」であって、そこには人々の気持ちが投影によって映し出されているのではないか、と思うのだ。「映る(写る)」とは、見られるということ。見られるということは、自分がある特定の像を持って現象するということである。特定の像を持って現象するということは、必ずしも内面的な自己同一性とは一致しないことがあり得る未来的な時間性に向かって、自己を他者の目に対して投企(※3)するということである。「投企」とは、「投棄」と同音異義であって、要するに自己を棄て去る可能性に向かうことであるので、とてもリスクの高い行為なのだが、「投企」は「陶器」とも同音異義であり、すなわち、自己像を自らの手で形作ることでもある。したがって、投企することには勇気が必要であり、それを避けようとすることは、責任を回避しようとする心理に繋がっている。マスクとは、伝染される/映される(写される)ことを回避するもの、すなわち、感染と責任を同時に回避するための道具なのだ。何せ、伝染されれば生活空間を病棟に移されてしまうのだし、下手に映され(写され)てしまうと、社会的立場を移されてしまう可能性がある。 マスクとは、"責任"という概念が指し示そうとするもの=古代ギリシャ的主体性をその範型として構想されてきた"人間"の限界を示すものとして、わたしたちの顔を覆い隠すのである。(※4)
コロナウィルスは、様々な影響を人々に与えている。その影響は、身体的な疾患がなくなった後にも続いていくだろう。
なぜならコロナウィルスは現実に現象しながら、同時に比喩として人々の心に響いているからだ。
コロナウィルスによって、人々は自分の内側にある目に見えないものが、自分以外の人に影響を与える可能性について意識させられる。それにどう対処するのか、について、人々は否応なく責任を迫られることになる。マスクを持っているのに着用しない人には、「なぜマスクをしないのか」という質問に対しての回答を準備させるような圧力がかかるし、大した用もないのに人混みの中に出て行く人には、「それは自分勝手な行動ではないのか」という内的な葛藤が渦巻く。それは、個人の問題ではなく、伝染病に対処する社会が抱く倫理的な課題なのだ。
それは、現実的な課題として人々に意識されながら、同時に人々の想像力を刺激している。わたしたちは、コロナウィルスの画像をネットやテレビで目にしているが、空中を舞うそれを決して肉眼で捉えることはできない。それでも、わたしたちは、コロナウィルスの存在を「感じ」ている。その「感覚」は、決して知覚神経によるものではなく、空想によって生み出されている。「感覚」は、「間隔」である。すなわち、それは「感覚」するわたしたちからは隔てられたもの、わたしたちではないもの、すなわち対象/他者である。「感覚」されるものは、「間隔」があるからこそ、わたしたちではないものとして、存在する。コロナウィルスは決して目に見えず、聞こえず、触れず、口に入ったとしても味わうことができるものではない。わたしたちにとって内(無い)的に感覚されるものであるはずのそれは、しかし対象/他者として、感じられるものとして存在するのである。
対象/他者は、常に自己を映すものとして作用する。目に見えないものが存在し、それは人から人へと影響していくものであること。わたしたちは、一個の個体として各々に完結した存在ではないこと。それがコロナウィルスの暗喩である。「間隔」が「感覚」され、しかし、それは目に見えない何かによって橋渡しされているということ。
コロナウィルスの影響は、その暗喩が人々の心に響くのに応じて、医学的な範疇を逸脱し、倫理、道徳、政治の領域に及んでいく。わたしたちは、わたしたち自身の問題として、わたしたちでないものが、わたしたち自身の手によって伝わっていくという事実に、対処しなければならない。それは、わたしの外から来るものであり、しかし、わたしの中に入り込み、わたしを変化させ、また、わたしの外へと出て行くのだ。コロナウィルスの暗喩が伝えているのは、「わたし」とは、「渡し」であり、それは人から人へと伝わりながら、決して一つの完結したものとして落ち着くことのないものである、ということではないか。
フランスの哲学者カトリーヌ・マラブーが提唱する概念に、「可塑性(プラスティシテ/plasticite)」というものがある。これは、彼女自身によって
「形を受けとる能力(たとえば、粘土が「可塑的」であると言われるように)と、形を与える能力(造形芸術や形成外科 les arts ou la chirurgie plastiques におけるように)を同時に意味する」
(※5)と定義されている。日本語で「可塑性」と表記されると、「形を受け取る能力」の側面ばかりを考えてしまいそうだが、フランス語のplasticiteの語源はギリシャ語で「形づくる」を意味するplasseinにあるのだと彼女は説明する。すなわち、「形を受け取ること」と、「形を与えること」は、同時的であり同義的である。plasticiteは、可塑的な物質であるプラスチックplastiqueと語源を同じくしている(※6)。このことから、彼女はさらに、それをプラスチック爆弾と結びつける(※7)。すなわち、ある条件の下において、可塑性は爆発を引き起こすのである。この「可塑性」という概念は、何かに似ていないだろうか。
可塑性は、人間の精神と脳において確実に存在する一つの能力であると、マラブーは説明している。
人から人へ、物体から人へ、人から物体へ、またその物体から人へ。形を受け取り、変化し、また形を与えて、変化させる能力。人間の内面は、それが外へと出るためには、常に何らかの比喩形象が必要とされる。すなわち、それが表現媒体となり、人々が発見し、鑑賞するためのものが必要とされるのだ。
かつて、演劇人であり思想家のアントナン・アルトーは、ペストについて論じながら、それがウィルス性の感染症であるという形象を纏いながら、その実、人々の内面性を曝露するための比喩であったことを指摘している。ペストの伝染は、人々の暴力性に、そのアナーキーな欲望に火をつけたのだと。(※8)
「生き残った最後の人々はたけり狂う。それまで従順で品行方正だった息子が父を殺す。禁欲家が、近親の同性を犯す。淫蕩な男が純粋になり、守銭奴が窓から金貨を手づかみで投げる。戦争の英雄は、かつて命を賭して救ったその町を焼き払う。洒落ものが、あくどく着飾って、屍体の山の上をねり歩く」(※8)
と彼は書いている。彼が伝えているのは、伝染病、あるいは感染症という比喩形象が、人々の心に及ぼす影響である。感染症という比喩は、人々が今まで気付くことのなかった自分たち自身の姿、ある抑圧された側面を映し出し、外へともたらすのである。
「わたしたちの脳は可塑的plastiqueである、だがわたしたちはそのことを知らない」
とマラブーは言う。
コロナウィルスが、わたしたちの中にある可塑性を映し出す鏡となるのだ、と考えることは、少々行き過ぎた議論だろうか。
人間が可塑性と呼ばれる能力を持っていることを示すことは、人間の精神と外部、すなわち世界全体が、ひと繋ぎであることの一つの証明である。しかし、我々のすべては、分裂した半身(半神)であるがゆえに、「そのことを知らない」。わたしたちは、わたしたちがそれぞれ独立した主体として「個」であると教えられている。「個」は「孤」である。「孤」とは、"父なし「子」"のことだ。わたしたちは、「子」が父を殺し、母と寝ることによって「孤=個」となるという、精神分析学的なテーマを刷り込まれている(※9)。しかし、「父」は「乳」であり、母と切り離して考えることはできない。
わたしたちは、公共性とは、複数の「個(孤)」による共存のことである、と教えられてきた。しかし、「孤」は「弧」である。すなわち、それは一つの円環の一部であり、わたしたちは常にその輪の中にいるのだ。
目に見えず、匂いもせず、それを持つ本人にすら気づかれないコロナウィルスの存在は、この「個」を超え、「孤」の先にある「弧」の存在を表現する比喩であると言えないだろうか(※10)。なぜなら、コロナウィルスに向かい合い、そのことについて考えるとき、わたしたちは「個」を超え、「孤」をすり抜けるものについて、意識せざるを得ないからである。
※1「漢字」は「感じ」と同音異義であり、その意味で、「漢字」とは「感じ」を喚起し、区別するための道具なのだと考えることができる。また、逆に「漢字」は「感じ」によって、その機能を左右されるのだ。
※2萩尾望都『半神』、夢の遊民社/野田秀樹『半神』
※3「投企」は、ハイデガーによって提起された概念。ハイデガーは、言語の複合性、重層性、その起源などを好んで論じた。
※4因みに、「コロナウィルス」の「コロナ」は、ギリシャ語で「王冠」の意である。
※5カトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか』Que fair de notre cerveau?
※6西洋諸言語は、漢字/仮名の重層構造を共時的に維持する日本語とは違い、言語の意味の歴史を共時的に解釈するのが難しい。それゆえ、言語の通時性の研究、すなわち語源研究が、日本語における同音異義の並列と同様の意味を持つのである。
※7「カトリーヌ・マラブー『ヘーゲルの未来』L'Avenir de Hegel
※8アントナン・アルトー『演劇とペスト』(『演劇とその形而上学』所収)
「ペストについて、歴史家や医学の相も変わらぬ考え方がどうあろうと、それが一種の精神的な本質であって、ヴィールスによってもたらされるものではないという点では意見の一致が見られるのではないかと思う」
「ひとたび、ペストが町を襲うと、正常な社会の枠はくずれ去る。もはや衛生局も、軍隊も、警察も、市当局もなくなる。手のすいたものが、死体を焼く薪に火をつける。どの家族もわれ勝ちに薪を求める。たちまち、木も、場所も、従って炎もすくなくなり、焚火をめぐって、近所同士の争いが起る。やがて屍体の数がふえすぎて、ついに、全面的な避難が始まる。もう、道にはいたるところ屍体がころがっている…」
※9ジークムント・フロイト『トーテムとタブー』
※10目に見え、匂いがし、ファッションとしてすら機能する煙草は、かつてこれとは逆の比喩形象として作用した。すなわち、「個」の意識を強めたのである。
また、別の事例としては、先の震災による放射能汚染のことが考えられるだろう。人々は、中心から放射されるものとしての放射線のイメージを比喩として受け止めることによって、中心に対する批判性、すなわち政府への批判意識を高めたのである。
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