カレー鍋をのぞく時、カレー鍋もまたこちらをのぞいているのだ
今日の朝ご飯はカレー。
昨日の夕ご飯もカレー。
きっと今日の昼ごはんもカレー。
そうやってカレーが続いても、毎度「おいしい」といえるくらい、カレーが好きだ。
今朝、深手のフライパンに残ったままのカレーをよそった。もったりと脂の固さを感じながらお玉ですくった時、ふと気がついた。
二日目のカレー鍋には、どこか哀愁がある、と。
一日目、作り立ての時は、夢と希望とおいしさがタプタプに詰まっていたのに、今朝はどうだろう。
まず、量が少ない。鍋の半分もない。これが(個人的に)悲しい。
更に、鍋肌についたカレーがこびりついたまま膜になった部分。水分や油のせいで、掬われても穴ぼこになって戻らない姿。かき混ぜられて角のとれた人参、じゃがいも。そんな中で、変わらずぷりぷりしているしめじ。
全部含めて、物悲しさを感じざるを得なかった。
祭りの後に置き去りにされた、青い水が半分入ったままのスチロールカップを見ているような心持ちになった。
しかし、カレーはまだ生きている。
放置されたかき氷とは違って、カレーは二日目でもおいしい。
適当に茶碗へよそったカレーをレンジで温め、その上からほかほかの白米を盛る。
こんな何ともものぐさなカレーを、でかいスプーンでかっ喰らうのが、私は大好きだ。鍋の哀愁をスパイスに、救いすら感じてしまう。
もしかしたら、起き抜けで、髪もぼさぼさのまま、そんな風に朝ごはんを食べる私こそ、他所から見たら哀れなのかもしれない。
つまり、鍋に哀愁を感じている私も、哀愁漂う人間になっていたというわけだ。
大好きなカレーと同じ雰囲気を纏えたなら、それでいいかもしれない。
【カレー鍋を覗いた朝の話】
22.2.13 おいも
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