400年前の謎を紐解く①
止まない雨は無いと云うけれども、晴れ続ける事もないんだよなぁと思う月曜日。
4月15日(月)の広島は小雨が降ったり止んだりのお天気となった。
お花見ムードはもう過去の話になり、広島市内の桜の木もほとんどが少しの花を残して新緑となっている。
土曜日に似島で見かけた藤棚には、藤色の花が葡萄の果実のように咲いていたから、季節はもう晩春を迎えているのだろう。
昨日のnoteに書いた「似島と湯来町の関係」が、昨晩から気になって気になって仕方ない気持ちのまま今朝も出社した。
明日16日から一泊二日で愛媛と高知に出張なので、今日は広島市佐伯区を回る予定にしてたのが運の尽き。
湯来町とは、昔は広島県佐伯郡湯来町だったのだが市町村合併の結果現在は広島市佐伯区湯来町になっているのだ。
ここでおさらい
昨日のnoteの概略
⚪︎似島の歴史は西暦1600年頃に初めて人が住み始めてから始まった。
⚪︎資料は残っていないが島の口伝では白砂村(しらさごむら)から来た数名が最初の島民との事。
⚪︎白砂村とは現在の佐伯区湯来町白砂である事。
⚪︎私の母方の里がまさに湯来町白砂である事。
私は、気になる事は調べないと気が済まないという困った性分であり、調べない事には仕事にもなかなか身が入らない。
ある意味、最も効率よく仕事をするには先ず湯来町の役場に行って郷土史を見させて貰う事じゃあるまいか?
それで結局、佐伯区役所湯来出張所白砂連絡所(長い)に行ってみた。
窓口で何から伝えればいいのか…とかなり思案したが以下のように説明した。
【似島の歴史を調べており、その中で最初の島民は1600年頃に湯来町から来た人達だと分かった。似島には古い郷土史が現存しておらず、湯来町側の郷土史から紐解けないかと思い伺った】
「へー!似島の始まりがそうだとは知らなかった」
郷土史(郷土誌)があるので、持ち出し禁止ですが部屋でご覧頂くのは構いませんよ、との事。
郷土史の編纂は平成7年となっていた。1995年だから約30年前だ。編纂メンバーは既に居ないかもな…と軽く絶望感は生まれた。
中身を見たが、編纂メンバーの執念を感じる程に歴史が紐解かれていたのには驚嘆した。
歴史表はほんの一部(全4巻構成でものすごい情報量につき、とても今日だけでは読めない)だが、似島の口伝では
「白砂村から来た」と具体名があったので、少なくとも白砂村と命名された1601年以降に誰かが似島に引っ越したと云う事が分かる。
また1649年に五人組が導入されている。五人組とはかなり強い制約のある運命共同体である。
五人組のうち数名だけ白砂村から引っ越すと云うのは基本的にあり得ない。常に連帯して責任を負う義務が課されているのだから、恐らくは五人組総出で似島に移動したのだと推察した。
似島の口伝(白砂村から来た数名もしくは数家族)とも整合性を失わない。
ただ郷土誌から読め解けたのはそこまでだった。
読むと〇〇村の〇〇座右衛門が勝手に木を切って打首になった…だとか、A村とB村が境界線を巡って揉めた挙句に〇〇が狼藉を働いた…と云うような細かな話も随所に残っていた。
そうなると五人組が丸ごと湯来町を離れたという大きな話なら必ず何処かに残っているはずだと考えたが、少なくとも今日は分からなかった。
白砂連絡所の方々にはお礼を申し上げて、もう一つの佐伯区役所湯来町出張所に伺った。
職員の方にここまでの話を伝えて、湯来町誌の編纂メンバーでお会いできる方はいないか聞いてみたのだが、編纂から30年経過しており、ほとんどの方が亡くなってるかも知れないとの事。
ひとまず調べてまた連絡を下さるとの事だった。
また、近くに図書館と資料閲覧室があるので、そこの職員なら何かわかるかも知れないとのアドバイスを頂いた。
善は急げとばかりに車を走らせて見たが生憎図書館は本日おやすみ。
という事で本日の捜査はここで一旦終了となった。
今後の目的としては
「誰が似島に住み始めたのか」
「白砂を離れた理由」
この二つについて今後調べてみるつもりだ。
オマケ
湯来町に住む母の兄(伯父)にもついでに会ったのだが
「そんな銭にならん事を調べてどうするんじゃ(笑)」
と笑われた。
理由は簡単。
私はマスターキートンを崇拝している。
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