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『平家物語』雑感

古川日出男訳の『平家物語』を読了。

なんとなくこの、源平が鎬(しのぎ)を削った時期というのが気になっていた。
というのも、時は武士が台頭し始めた時代。

I HATE BUSHIDO.

私は「武士」なるものが大の苦手で、嫌いだからかえって気になる存在なのだ。というか、嫌悪の核はいわゆる「武士道」かもしれない。
もう少し正確にいうと、新渡戸稲造なんかが海外向けに"BUSHIDO"を書いて、それが逆輸入されてきた形でのアレだ。あと三島由紀夫の武士道観も。

ところで、本書の舞台となる時代というのは、後白河法皇が実質上、朝廷側の最高権力者であり、その彼を警護する役を任された平氏が、武力でもってその権勢を誇っていた時代。

平清盛は次々と身内を官職につかせて権力を強め、しだいに法皇の手にも負えなくなっていく(どこか、今のご時勢とリンクしていなくもない。)。

現在まで続いている、権力者のダブル・スタンダードの雛形が出来上がりつつあった時期だともいえる。それは平氏が滅び、源頼朝が鎌倉幕府の征夷大将軍になり、朝廷権力を警護するという名目が制度化されることでより明確になる(承久の乱以後は、朝廷の監視の色を強めるのだけれど)。
その後、武士は公家の力を圧倒し、室町幕府を経て、私の大嫌いな戦国の世になだれこんでいく。

その延長上にいる信長、秀吉、家康も大嫌い。その理由は明らかだ。
サラリーマン生活を、戦国の世のメタファーで、あるいは江戸幕府のメタファーで語りたがる人(といっても年代はご想像にお任せします)にたくさん出会ってきたからだ。そういう戦国メタファーに頻繁にさらされ、正直なところ、そういうマッチョな語法にはうんざりしている。

(ちなみに、江戸と現代は明治維新に前後する近代を挟んで言うまでもないが本質的な断絶があって、それは杉浦日奈子や田中優子の著作を読めばある程度わかる。私はなまじ江戸が好きだから、戦国メタファーやBUSHIDOメタファーにアレルギー反応を示してしまうのだった)

どうしようもない人間を描くのが文学!? 平重盛死後の地獄

それはさておき、話を戻したい。本書の圧倒的な語りの圧に押され、およそ900ページをどうにか読み切った。

読みながらずっと、抱いていた印象。それは、諸行無常の響きあり、盛者必衰のことわりを表す、というと何かそれらしい響きだが、
とにかく人間ってどうしようもない、でもこれがなぎれもなく人間だ、というもの。
(と同時に、この、人間のどうしようもなさが輝く形式が文学なのかもしれないとも思う。
もしもこれを歴史ノンフィクション作品、としてパッケージングされたら、読みたい気持ちが半減しそう)

平家の驕りたかぶり、だけでなく、その討伐にあたる源氏の、例えば、木曽義仲源義経源頼朝の仲違い、あるいは敵味方の裏切りなど、枚挙にいとまがない。

そしていまひとつ、これは『平家物語』が、時を経て複数の語り手によって編集された結果、物語として最大の魅力の一つになっていると思うのだけれど、平家においていちばんまともな、清盛の息子である平重盛が早くして死んでしまうという不幸。これを機に、平氏は暴走をはじめ、滅亡へと転がり落ちていくーー

唯一の善が失われた、地獄のような世界。
以後はそれこそ、「レ・ミゼラブル」とでも名付けたい、地獄めぐりのような展開が続く。
そしてこの世の無情を繰り返し嘆き続ける琵琶法師。
書きながら、意外にもダンテの『神曲』にちょっと似ているのではないかと思いはじめた。

素朴な疑問

中学のときに、国語の授業で「壇ノ浦の合戦」のくだりを読んだ記憶がまざまざとよみがえる。
あんなに悲しい場面を掲載する(大人たちの犠牲になって子供天皇が何も知らずに入水自殺させられる)のはほんとうに悪趣味だと思ったおぼえがある。特攻隊すら彷彿とさせる。
犬、猫、子供、を犠牲にすれば、それは心はいやでも動くだろうに。

その「壇ノ浦の合戦」だけでなく「倶利伽羅峠の合戦」とか、有名どころのシーンよりも、それ以外のシーンのほうがよほど面白かった。

それはひとえに私の無知に起因するのだが。

①袖を濡らす

例えば、平家、源氏、公家、その他下々の者、みんな、やたらと涙して「袖を濡らす」のが第一ふしぎで興味深い。
この袖を濡らすという表現は、ほかにもいくつか古典を読んで出会ったことがあるが何なんだろう。 きっと、みんながこぞってそこまで泣き虫なわけではないはずで、そうすると、この「泣く」という型にはまった身振り表現が多用されるに至ったいきさつとは何か。気になる。

「ひどいことしてるくせに、泣けばいいってもんじゃない」
と、『平家物語』を読みながらも、何度か思った。泣くことで、なんとなくことが許されていくこの異常な感じ。
今だったらむしろ、男だって泣いていいんだよ、という話になると思うが、少なくとも本書を読むに、男もかつて、よく泣いていた

例えば、源氏が平氏の捕虜の首を斬る際に、泣く泣く斬るというシーンが何回出てきたか。殺戮の言い訳のようにしか聞こえない。

②やたら出家する

あと、みんな、やたらと出家する。仏門に入る。その最たる例が、後白河法皇だと思う。出家しとけば何やってもOKみたいなところがある。形だけ幼い天皇を地位につけといて裏で操る、みたいな。

そしてもう一つ、関連して見逃せないのが、比叡山は延暦寺坊主勢力。ほとんど輩(ヤカラ)ではないか。
気に入らないことがあると、武器を取って大勢の坊主どもが京都に降りてきて暴れまわる。おまえら、まがりなりにも悟りを開こうとしているのではあるまいか。

そしてさらに、夫を殺された公家が、あるいは仕えていた主人を殺された家来も、やたらと出家する。そして死者を供養する。
「なんだか知らないけど、西を向いて西方浄土に念仏を唱えれば、極楽浄土に行けんじゃない?」みたいな軽さを感じるのは気のせいだろうか。

けれども一方、この気軽さが、女性を守る原理、アジールとしても働いている。女性は何と言っても、子供を産む存在であるという偏見がもちろん本書には根深くある。
男性すなわち権力者がどれだけクズであろうとも、(フィクションとしての)自然的存在である女性はその、男性的な「歴史というフィクション」をひとまずリセットする。まるで、正反対のフィクションを設定して、±0になるようにバランスをとっているかのようだ。うまくできている。

③謎の存在、天皇

そしていちばんの謎は、天皇。
じつは、後白河法皇が権力を握っている意味がまったくわからない。ほとんど無力。だからこそ平氏が護衛についたはず。
でも、平氏が暴走し始めるなり、じゃあ平氏を滅ぼせよ、という院宣をこんどは源氏に与える、この不可解な朝廷という総体は何なんだろう。不思議で仕方がない。

もし自分が源氏だったら、平氏を滅ぼすとしたら、ついでに朝廷ごと、後白河法皇ごと、滅ぼそうとすると思う。
じっさいそれは、ある程度は実現したわけだけれど。
でも源氏は違う。律儀に、朝廷の権力を笠に着て、平氏討伐を繰り広げる。
つくづく不思議なものだ。そしてそれは、とても日本的だと思った。
日本では、どうしてヨーロッパのように王を滅ぼすための革命が生じなかったのか、あくまで朝廷という権威が好き放題利用されてきたのか、という疑問は何も解決されないまま残る。



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