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「昌平橋聖堂神田川」−学問を上り詰める坂?!−『名所江戸百景』

体調が恒例の定期的な絶不調期なので明日やろうは馬鹿野郎になる前に書き上げちゃいます、、!

今日は広重『名所江戸百景』「昌平橋聖堂神田川」です。

◼️ファーストインプレッション


手前の絶壁が人は決して登れないような斜面なんだろうなということしか推測できません笑。頂上に木が一本生えていることでよりその急斜面具合が増している気がします。
この真ん中に流れる川が神田川
藁で雨を凌いでいる荷物かな?が運ばれています。
奥の急な坂道はきっと題名の通りの昌平坂?かな?
昌平坂学問所って江戸時代あ理ましたが、誰の何学の学問所か忘れてしまいました。
広重はこの絵では雨を青い直線で表現しています。
他の作品での広重ももちろん、喜多川歌麿、渓斎英泉、歌川国貞もまだ雨を黒の直線で表現していたことが「江戸の天気」展の図録からわかりました。
けれど時代が明治昭和に入ると雨を”白い”直線で表現し始めます。小林清親や川瀬巴水などはその一例です。
天気の、はっきりとした形のない「現象」に形をつけて表現することの難しさを感じます。

◼️昌平坂学問所

この絵にはきちんと昌平坂学問所が描かれています!!よかった!!
どこかというと向こうの坂の右側にある建物が段になっている所。
これ一体が学問所であるらしいです。

幕府や諸藩は支配者層である武士に対して、儒学(じゅがく)の知識と教養を身に付けさせることによって、士農工商という身分的秩序を維持しようとしました。その学習施設として幕府が設置したのが昌平坂学問所であり、諸藩が設けたのが藩校(はんこう)です。

そうだそうだ、武士のための学校だった!
江戸のだけ名称が特別だったんですね。本部みたいな。

武家に生まれてきた子供たちはこの学校に通い、漢学を基に儒学を学びました。
朱子学がその名残でしたかな。
そこで儒学の祖「論語」「大学」を教科書のように利用して学習したと言います。
あ、、大学一年の時にとりあえず暗記しろと言われ、友人に借りた論語の注釈書まだ返してないな、、笑。

文京区湯島にあった昌平坂学問所も、もともと儒学者として徳川将軍家に仕えた林羅山(はやしらざん)(1583~1657)を祖とする林家の家塾(かじゅく)でしたが、18世紀に行われた「寛政の改革(かんせいのかいかく)」(1787~1793)によって幕府の官立学校となりました。

林羅山!徳川家康のお抱え先生としか覚えていませんが、儒学者として先駆者となった人ですね。確か大学頭みたいな位の。
彼の教えを林家が繋いで繋いで繋いでここまで大きな学問所を全国展開することができたのですね。
因むとこの坂の建物の中全体を昌平坂学問所としているので、一部は湯島聖堂、一部は幕府官立の学問所といった施設がいくつかありました。その中の湯島聖堂は上野忍ヶ岡にあった聖堂を移転したものであるそう。その時は徳川吉綱の代。
このように何代にもわたって江戸で学問を教授していたのですね。

これを筆頭に儒学だけでなく、医学や和学、洋学を扱う学問所が増えていったそうです。


◼️この絵が描かれている場所

この絵に神田川が中央流れていることは先ほど推測しましたが、それに加えてもっと手前に描かれている橋の欄干にも注目するべきでした。
この欄干の存在からわかる橋は題名の通り昌平橋

この地図では赤ピンが昌平橋を示しています。
それに加えて見渡すべきは水色ピンの史跡湯島聖堂という所。
つまり絵の奥の坂の脇に立ち並ぶ建物のうちの一つです。
ということはその南側の道が昌平坂
広重は現在の神田郵便局の当たりから、史跡湯島聖堂に向かって俯瞰して描いていることがよくわかります。


今回は昌平坂学問所の概要とこの絵との関係、この絵の描かれている場所を見ていきました!

今日はここまで!

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