地域で楽しく過ごすためのゼミ 11月
2021年11月22日、地域で楽しく過ごすためのゼミが開かれました。
今回の課題図書は『活動的生』(著:ハンナ・アーレント 訳:森一郎 2015年 みすず書房)です。担当は小川です。
※本書は『人間の条件』(著:ハンナ・アーレント 1994年 ちくま学芸文庫)のドイツ語版を日本語に訳したものです。
この文章では、実際にゼミで使用した要約文章を掲載します。
〈以下要約〉
<選定理由>
私が東京から地方へ移住を決めた理由とも重なるが、人間らしい生活とは何かを考えた時に東京のせかせかとした生活から一度遠ざかることで何か実感できるのではと考えた。
本書のキーワードとなる「労働」「制作」「行為」という三つの視点、「労働」に対するアンチテーゼはまさに東京で暮らす多くの人に当てはまるのではないだろうか。コロナで混乱したこの時期にこそ人間らしい生活について議論をしてみたい。
<本の主な主題>
「活動しているときわれわれは何をしているのか」
一貫して問いかけていることはじっくりと考えることである。この世に生き、日々行っていることについて根本的に考える。
それを「労働」「制作」「行為」という三つの視点でまとめられている。
<論旨の展開>
序章
第一章 人間の被制約性
第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域
第三章 労働
第四章 制作
第五章 行為
第六章 活動的生と近代
構成としては
① 定義と議題にあたっての諸要素の説明 第1.2章
② 労働、制作、行為という、活動的あり方の分析 第3.4.5章
③ 近代において三種類の活動の相互関係 第6章
《序章》
地球に縛られた存在でありながらあたかも宇宙を故郷としているかのようにふるまっている人類が、みずから宇宙人然と行なっているものごとを、 理解することなど、 すなわち、それについて考えつつ語ることなど、永久に不可能であろう。
活動しているときわれわれはいったい何をしているのか、をじっくり考えることであって、それ以上ではない。
《第一章 人間の被制約性》
<1 活動的生と人間の条件>
活動的生とは、人間の三つの根本活動、すなわち労働、制作、行為を総称する言葉として用いられる。
●労働=人間の肉体の生物学的プロセス
その自然物を生産し加工して生活に必要な物として生命体に供給する
労働という活動にとっての根本条件は、 生命それ自体である。
●制作=自然に依存しているはずの存在者のもつ、反自然的側面
制作は、さまざまな物から成る人工的世界を産み出す。
制作という活動にとっての根本条件は、世界性である。すなわち、人間的実存が対象性と客観性に差し向けられ依拠していることである。
●行為=物質、素材、人工物といった媒介によらずに人間どうしのあいだでじかに演じられる唯一の活動
行為に対応している根本条件は、複数性、たった一人の人間がではなく、多数の人間が、この地上に生き、この世界に住んでいる、という事実
三つの根本活動と、それらに対応する条件はどれも、人間の生の最も一般的な被制約性に根ざしている。
<2 活動的生という概念>
活動的生について語るとき、活動的生に含まれるさまざまな活動が、「人間一般」の抱く永遠に同一であり続ける根本的関心事に還元されるなどということはありえない。さらにいえば、それら多様な活動は、観想的生の根本的関心事より上位にあるわけでも下位にあるわけでもないこと、このことなのである。
<3 永遠と不死>
不死=死を免れた生(活動的生)
永遠=人間の経験を越えた、他者に伝えることのできないこと(観想的生)
「活動的生」他の人間の間に入って不死になろうとする
「観想的生」永遠のものを純粋に内面的に求める
近代が勃興し、それ以前の秩序、とりわけ行為と観想との伝統的な上下関係を、力ずくで転倒したときでも、かつて活動的生および政治一般の源泉にして核心であったはずの不死を求める努力を、忘却のなかから掘り起こすことにすら成功しなかった。
《第二章 公的なものの空間と、私的なものの領域》
<4 人間は社会的動物か、それとも政治的動物か>
活動的生とは、活動的あり方に従事しているかぎりでの人間生活のことである。
それは、人間世界および物の世界のうちを動いており、この世界から離れることも、それを超越することも決してない。人間の活動はすべて、物や人に取り囲まれて行なわれる。
行為と言論のみが、真にポリスと見なされた。
思考が言論に先立つのではない。これに対し、言論と行為とは、等しく根源的でおたがい対等なものと見なされ、同等同格のものであった。
ポリスに生きることは、説得力をもつ言葉によって一切の案件を処理し、決して強制や暴力に頼らない、ということを意味した。
<5 ポリスと家政>
ポリスと家政の領域とが異なるのは、ポリスにおいては、同等の者のみが存在していたのに対し、家政の秩序は、まさしく同等でないことにもとづいていたからである。 自由人は、支配することも支配されることもない。それゆえ、家政の領域の内部に、自由はそもそも存在しえなかった。
生が「善い」と呼べるのは、ひとえに、生活の必要にあくせくせず、労働と仕事から解放され、生きとし生けるものにそなわった生存本能をある意味で克服し、その結果、生物学的な生命プロセスの奴隷に成り下がった状態から相当程度抜け出ること、これに成功するかぎりにおいてのみであった。
家政を管理して必然を克服することができなければ、生きることも「善く生きること」も、どちらも不可能である。ポリス市民に関していえば、彼らにとって、家政の領域内に生きることの唯一の存在理由は、ポリスのうちで「善く生きること」だったのである。
<6 社会の成立>
社会とは、とにかく生きるというただ一つの究極目的のために、人間どうしたがいに依存し合うこと、ただそのことのみが、公的意義を獲得するような共存の形態である。
社会の一枚岩的な性格は動物種としての人類の単一性に根ざすものである。
大衆社会は、人間を社会的動物として完全に解放し、見た目には人類の生命維持を世界規模で保証し始めてはいるが、しかし同時に人間性を絶滅しかねない勢いである。
労働が、近代では公的に行なわれるようになり、異常ともいえるほど完成されていったのにひきかえ、行為し言論を交わすわれわれの能力は、近代では私的で内面的なものの領域へ押しやられて、質の点で損害を明らかに被った。
<7公的空間―共通なもの>
「公的」とは、
・一般公衆の前に現われるものなら何であれ、誰でもそれを見たり聞いたりすることができること
・世界それ自体である。世界とは、われわれに共通なものであり、そのようなものとして、われわれが私的に所有しているもの
死すべき者たちが、時代の自然な衰亡に逆らってなんとか守ろうとするものを、何であれ受け入れ、何世紀にもわたって保存し、輝き続けさせることができるということが、 公的なものの本質にはひそんでいる。
現実が成り立っているのは、さまざまな位相が集まっているからこそであり、そのおかげで、対象物はその同一性において、多数の観察者に呈示される。
共通世界は、それがわずか一つの位相のもとで見られるとき、消失する。共通世界がそもそも存在するのは、その遠近法が多様である場合だけだからである。
<8 私的領域―財産と占有物>
私的なものはもともと欠如を意味する。私生活を送るとは、人間的な一定の物事を剥奪された状態で生きるという意味である。
剥奪されるもの=他者との「客観的」すなわち対象的な関係
生命よりも永続的な何かを為し遂げられるという可能性
現代世界では、こうした剥奪とそれにつきまとう現実喪失によってもたらされた、見捨てられた状態が、ついには大衆現象と化してしまっており、この状態においては、人間関係の欠如が、最も極端で最も非人間的な形態において現われている。
私的領域とは、秘匿性の場所であって、そのうち人間は、公的なものの光から保護されて生まれてき、死んでゆく。
塀が、住人の「私」生活を保護したように、法は、都市の政治的生を取り囲み、宿らせていたのである。
<9 社会的なものと私的なもの>
社会がいつ成立したか
指摘占有物が私的関心事であることをやめ、公共の事柄となり始める瞬間
私的なものと公的なものとの古い対立を、最初は矛盾として再発見する。だがこの矛盾は、近代の発展の見かけ上の、もしくは一時的な現象でしかない。この矛盾は、全体としての社会の関心によって解消される。
使用価値は、使用される物が置かれている場所と切っても切れないのに対し、社会的価値は、そのつどの交換可能性に従う。この交換価値は、社会的プロセスの規準に応じて変動するし、それがそもそも規定可能なのは、一切の価値が貨幣という公分母へさらに還元可能だからこそである。
近代になって、財産は空間的性格を失い、占有物は世界的事物的な性格を失い、どちらも人間それ自身へと還元された。
私的財産の廃止こそ、真に脅威的なのである。財産を没収してやまないこの脱固有化により、人間は、つねに制限されてはいるがその代わりに掴みどころのある取り扱い可能な世界の一部から、切り離されてしまうからである。
私的領域と公的領域との区別は、最終的に、公開すべく定められている物事と、隠されるべく定められている事物との区別に帰着する。近代になってはじめて、そして社会に対する反抗においてはじめて、隠されるべきものの領域は、内面性において完全に開示され展開された場合、どれほど並外れて豊かで多様でありうるか、が発見されるに至った。
<10 活動の場所指定>
人間の活動はあたかも宙に浮いているのではなく、それにふさわしい場所を世界のうちにもつ、ということである。
少なくともこのことは、活動的生の分節化されたかたちである労働、制作、行為の主要活動に当てはまる。
さまざまな政治共同体のあいだに、特定の活動がいかなる場所を指定されるかに関して合意が見られた。また、公的に見られ視線を浴びるにふさわしいのは、どの活動であり、私的領域のうちに隠される必要があるのは、どの活動であるか、に関しても合意が見られるが、この合意は、恣意的なものではなく、たんに歴史的事情のせいでもなく、事柄そのものの本性に存しているのだ。
《第三章 労働》
<11 「肉体労働と、手の仕事」>
「仕事する」手と「労働する肉体」を区別したのは、手仕事職人と、「肉体でもって生活上のやむにやまれぬ必要に奉仕する」 人びと、つまり肉体労働する奴隷と家畜の区別に対応している。
近代社会における類例のない生産性の増大を前に、「非生産的」にとどまっている労働は、過去の遺物として一括処理してしまいたくなるし、制作にのみ帰せられる性質をじつは労働はもっているのだと言いたくなるのも、労働する動物は本当は制作する人なのだと言いたくなるのも、無理からぬところがあった。
知識人階級の「産物」と奉仕業は、生物学的な生命プロセスのむさぼり喰らう胃袋にひっきりなしに補給されねばならない他の消費財に負けないほど、素早く無慈悲に消費されるのである。
<12 世界の物的性格>
物というのは、消費されるのではなく、使用される。われわれは、物を使用するうちに物に慣れ、使用を通じて物に親しむようになる。物からわれわれに生育してくるのが、世界の親密性であり、風習や慣習の親密性である。
行為、言論、思考は、端的に「非生産的」であり、何ものも生み出さない。
行ない、事実、出来事として、世界の内に定着するためには、この三者は、まずもって見られ、聞かれ想起され、次いで、変形されなければならない。すなわち、そもそも対象性格を獲得するために、物化されなければならない。
世界の内部で現実性と持続を保証するのは、物的性格のみであり、行ない、言葉、思想にそうした物的性格を授けることができるのは、この「堅実な仕事ぶり」だけである。
人間の生は、それが世界的であり、世界形成的であるかぎり、不断の物化のプロセスに参与している。
<13 労働と生命>
消費財は永続性の度合が最も低い。本来、産出される必要がなく、調理されたり調合されたりするだけでよい。
生命とは、永続的なものを至るところで使い切り、運び去り、消失させる過程であり、最終的には、死んだ物質は、一切を包括して巨大な循環運動をなす自然へと帰ってゆく。
この大いなる自然は、始まりも終わりも知らない。自然においては、一切の自然的事物が変わることなき無死の永遠回帰のうちをゆれ動いているのである。
制作は、対象物がそれに適合した形態を得て、完成した物として既存の物の世界に組み入れられるようになれば、終わりに達する。
労働の場合、「完成」されることは決してなく、無限に反復され、繰り返し同じ円を描いて回転運動する。それぞれの生命体の死でもってようやく終わりを迎えるのである。
<14 労働のいわゆる「生産性」と似て非なる、労働の多産性>
マルクスは、労働こそ人間の最も生産的で真に世界形成的な能力をなす、とした。
労働こそは、生命それ自体と同じほど「有機生命体的」な唯一の労働にほかならないからである。というのも、労働は、生命プロセスにあらかじめ指図された軌道に沿って進行するからであり、意志的に決断したり事前に目的を設定したりしなくてよい。
人間の生命プロセスがそのうちで現実に進行し、その生命プロセスに特有な多産性を発揮する。
労働して力を使い果たす生活を送ることによってはじめて人間は、あらかじめ指定された自然の循環運動のうちにとどまり続けることができ、その循環運動のなかで骨折りと休息、労働と飲食、快と不快のあいだをゆれ動くことができる。労苦と労働の見返りは、自然そのものが払ってくれるのであり、その見返りこそ、多産性にほかならない。
<15 「生ける」我有化の促進のための、「死せる」財産の廃止>
個人の生命を途方もなく複製して増殖させるとともに、それに応じて消費財を途方もなく複製して増殖させるという二重の意味において、多産性の自動機構を解き放つことができる。
労働する動物は私有財産を剥奪されてしまっているため、皆に共通な世界から自分が守られ隠される場所を喪失している。
マルクスの予言によれば、「社会的生産力」が妨げられずに発展するという条件下では、公的領域は「死滅する」。
社会化された労働する動物はそのあり余った自由時間を、それゆえ労働から部分的な自由解放を世界における自由に振り向けることには使わずに、自分の時間を、本質的なところで、世界とは無関係な私的道楽三昧に空しく費やすであろう。現代のわれわれは、それを趣味と呼んでいる。
<16 仕事道具と労働分割>
労働機具のおかげで倍化されるのは、労働する動物の自然的多産性なのであり、またそのおかげで産出されるのは、消費財の余剰なのである。
近代の労働を革命的に変革したのは、労働分割つまり分業である。
分割された労働の断片がどれも質的に等しいこと、したがってそれら断片のどれ一つにも 特定の技能は必要でない。
現代経済を真に特徴づけるのは、商品生産というよりはむしろ、仕事を労働へ転化させることだからである。対象物が労働によって産み出され、かくして労働生産物となったがゆえに、対象物はもはや使用されるのではなく、使い捨てられむさぼり尽くされるのである。
労働社会の理想とは、過剰な豊かさ、つまり労働にそなわっている多産性を、昂進させることでしかありえない。
<17 消費者社会>
労働と消費とは本来、生活の必要によって人間に押しつけられた同一のプロセスの二つの段階にほかならない。
この労働社会もしくは消費社会が成立したのは、労働者階級の平等解放によってではなく、むしろ労働という活動自体の自由解放によってである。
労働の自由解放は、労働という活動を、人間の他の一切の活動的生のあり方と等価で同権のものとして据えるのではなく、労働の圧倒的優位をもたらす、という帰結を招いたのである。
労働しない活動はすべて趣味と化す。
そのような社会にひそむ危険は、多産性が増大してあり余るほどになった豊かさに目がくらみ、無限のプロセスの円滑な機能のさまに囚われて、そもそも何が空しいものであるのかを、この社会が忘れてしまう、という点にある。
《第四章 制作》
<18 世界の持続性>
制作する人は、所与の素材を、制作という目的のために加工する。
制作という活動によって、まったく際限のないほど多種多様な物が、製造される。
使用されることにおいて使い古されてゆくものこそ、持続性と耐久性にほかならない。
<19 物化>
世界の作り手である制作する人の仕事は、物化という形でなされる。
労働する動物は、自分自身の力を、手なずけた家畜によって倍増させることによって、生活の糧を調達することはできるものの、大地と自然そのものの 主人には決してなれない。人間は、制作する人でもあるからこそ、大地全体を支配する主人に成り上がることができるのである。
産物は、自然が生き物たちに差し出す気前よい贈り物でもない。対象物を作り出すのに必要な材料は、大地の胎内から引き離されなければならない。人間の手による物が、すでにもう、実体であり実体性なのである。
複製する潜在能力
制作プロセスを導くイメージやモデルは、このプロセスに先行するばかりでなく、対象物が完成したあとでも、ふたたび消失することなく、そのまま現存し続けるのであり、そのおかげで同一の対象物がその後も制作されうる。
制作プロセスが反復される理由は、当のプロセス自体の外部にあり、そのプロセスとは無関係だ、という点である。
労働プロセスには、 果てしなく回転して循環する反復が内属している。 ひとは働くためには食わなければならず、食うためには働かなければならない。
<20 労働において道具的なものの果たす役割>
制作する人が、出来上がった物の世界、自分の目的の世界のうちを動くように、労働する動物は、道具のもとを動く。労働する動物は、仕事道具や道具手段を、世界を打ち建てるという目的のためにではなく、自分の労働を軽減するために使う。
技術は、全体として見れば、人間という有機体にそなわった構造が、人間の環境世界へみるみる置き移されてゆく、一個の生物学的過程であるかのように見える。
未来の技術は、現代の技術が人間世界の世界性を変えてきたのと同じ規模で、あるいはおそらくいっそう大規模に、自然界を変化させるのだろうか。
<21 制作にとって道具的なものの果たす役割>
制作する人は、制作し製造するために、仕事道具や機具を必要とし、またそれらを考案する。
自分自身の制作活動に内在する意味充実を発見したとん、自分が心に抱いている目的であり自分の手の産物であるところの物の世界から、すでに価値を剥奪し始めてもいる。
世界的なものをまずもって生じさせる制作行為を総じて導くのにどうしても必要な、目的−手段の思考をそのまま、現に出来上がっている世界のうちで尺度として適用させようと試みるやいなや、そういう世界の無価値化が起こってしまうのである。
制作する人とは世界の制作者のみならず世界の住人にして主人でもある、と見なすとすれば、人間は本当に、一切を自分で使用し、あらたな目的のための一手段として、または自分自身のための手段として眺め、用立てるであろう。
<22 交換市場>
世界の建立者にして物の制作者である制作する人が、他人に対して自分に見合った関係を見出すことができるのは、自分の生産物を他人と交換する場合のみである。
制作する人は、他人から孤立して生産される。
仕事という活動が終わり、制作されるべき対象物が現に出来上がってはじめて制作者は、孤立した自分の場所から外に出てくるのである。
商品渇望にとって決定的に重要なのは、物件の内在的価値とは独立しており、その成功のためには、何かを制作したり制作されたものの質を評価したりする手腕とはまったく別種の能力を動員しなければならない。
それまでは、当該の対象物の使用価値によってはじめてその交換価値が決定されていたのに、今や逆に、対象物の価値は、商品としてその対象物に与えられる価格にしたがって第一次的に決定される。
普遍的相対化と質の喪失が、価値そのものの本質にはひそんでいる。
制作する人の手に相対的尺度というのは存在しない。いかなる尺度も、それがまさに測ろうとしているものとの関係においては「絶対的」であり、測られるべきものを超越している。
<23 世界の永続性と芸術作品>
芸術作品は、あらゆる物のなかで最も永続的なものであり、それゆえ最も世界的なものである。そして、芸術作品は、生きている存在者の使用に晒されることがなく、使用によってその特性を破壊されることがない。
芸術創造にとってその創造そのものの外部にひそむ源泉をなすのが思考であり、これはすべての偉大な哲学にじかに現われる。
思考は、それによって霊感を与えられる芸術作品と同じく、無用である。
人間の環境世界とは、制作する人が人間に打ち建てた物の世界である。
この世界が、死すべき存在にその故郷を提供するという課題を果たせるとすれば、それは、世界が、消費のために生産された財の純然たる機能性を超越するのみならず、使用対象物のたんなる有用性をも超越するかぎりにおいてでしかない。
《第五章 行為》
<24 行為と言論における人格の開示>
人間の複数性とは、成員の誰もがその種類からして唯一無比である、という逆説的な特性をもつ数多性にほかならない。人間は、言論と行為なしですますことが決してできない。
人間誰しも、生まれたということを根拠として、始まりであり、この世における一個の始まりにして新参者なのである。だからこそ人間は、率先行動を掴みとり、始める人となって、新しいことを始動させる、ということができるのである。
行為とは、新しい始まりとして、誰かの誕生に応答するものであり、各個人において、生まれたという事実を現実化する。
これに対し、言論とは、あらかじめこの誕生のうちに与えられていた絶対的な相違性に応答するものであり、人間ならではの複数性を現実化する。
言論と行為には、語られたことや為されたことを超えて、発話者であり行為者である当人をありありと現われさせる性質がある。
<25 人間事象の関係の網の目と、そこで演じられる物語>
人間は、すでに存立している人間世界に生まれ出ずるのであるから、人間事象の関係の網の目は、あらゆる個々の行為と言論に先立っている。
行為とは、自分自身で作ったのではない網の目に自分自身の糸を縫いつけることに本領があるからこそ行為は物語を当然のように産み出す。
物語が、行為と言論の真の「産物」であるといっても、また、この「産物」が物語性格をもつからこそ、行為し言論をなしつつ人間は人格として自分を開示し、物語の話題たる「ヒーロー」を構成するのだといっても、その物語自体には、いわば作者が欠けている。
物語も歴史も、いわば行為の結果だからである。
<26 人間事象のもろさ>
行為は制作と違って、孤立していては、まったく不可能である。
行為と言論は、その宛て先となる共同世界を、必要とする。
始める人、指導者は、自分を助けてやり抜いてくれるはずの他者に依存しているが、始める人についてゆく人びとも、始める人なしには何かを為すことができない以上、始める人に依存しているのである。
行為はおのずと度を越すため、節度を保つということは、昔からずっと、古典的な政治的の一つであったし、傲慢は、昔からずっと、行為する人間の陥りやすい誘惑であった。
自分自身の行為の結果をそのつど完全に見越すことはできないゆえに、それを食い止めることさえ、ほとんど不可能である。
結果の予測のつかなさは行為によって不可避的に産み出される物語の進行の一部であり、その物語に固有な緊張を持って一個の物語の結末を待ち構えているからこそ、われわれは動揺することなく未来に向かって進み、未来へ方向を定めることができるのである。
<27 行為にまつわる難間からのギリシア人の脱出法>
ポリスとは、ポリスの成立以前に積み重ねられていた経験に対する答えであった。 ポリスは最初から最後まで、人間の共生が有意味なのは「言葉と行ないを分かち合うこと」に存するからこそであるとした。
行為と言論によって確立される空間的な間は、いかなる故郷の土地にも結びついておらず、人の住む世界にはどこでも新しく根を下ろすことができる
この空間的な間は、最広義の現われの空間であり、つまり、人びとがお互い同士公然と現われることによって成立する空間である。
現われの空間に持続的に身を保つことは、誰にもできない。なぜなら、死すべき者たちの生が、他のすべての生き物と同様、まさに生き生きと存在するために必要とする隠された状態を、公的なものの眩しすぎる光は、無に帰してしまうからである。
<28 現われの空間と、権力という現象>
現われの空間は、どこであれ、人びとが行為し言論を交わし互いに交渉し合うところに生ずる。
権力とは、公的領域を、つまり行為し言論を交わす者たちの間で潜在的に可能な現われの空間を、そもそも現にそこに存在させ、その現存在を維持するもののことである。
権力は、人びとが一緒に行為するとき、人びとの間に生じ、人びとがふたたび四散するやいなや、消失する。
現代のわれわれが組織と呼んでいるものこそ、権力にほかならない。
権力は、現われの公的空間を設立し、保持するのであり、そうである以上、権力とは、人間の手によって形づくられた対象物としての世界を文字どおり活気づけるもの、すなわちそもそもはじめて生き生きとさせるものである。
ポリスが存続し、異常なことに挑むよう人びとを促すかぎり、こうした輝きは持続するのであり、この輝きにおいて、善も悪も、相応の正しさを認められる。
<29 制作する人と、現われの空間>
市場は、制作という活動から生ずる公的領域ではあるが、生産者が集まった市場で行なわれる売買の交換になると、これはもはや、制作に結びつけられているものではなく、制作から自然な仕方で生じうるものでも決してない。
制作者を市場へと駆り立てる衝動は、他の人間を求める欲求ではなく、他の生産品への関心であり、この市場領域を成立させる。現に存在させ保持する力は、孤立して制作するときに獲得された「交換力」の結合作用なのである。
商品交換の優位は、人格的なものを公的領域から排除し、真に人間的なものをことごとく、家族という私的領域へ、あるいは内面的な友情関係へ追いやってしまう。
現代社会は、古典古代における社会的関係を正反対にひっくり返した転倒によって成り立っているのである。
制作という活動は、隔離された様態でなされるから、公的領域を確立することはできないが、しかし、公的な現われの空間と多様な仕方であくまで結びついている。少なくとも、制作は、物世界との関わりを決して失ってはいない。物世界は、外枠として現われの空間を取り囲んでもおり、現われの空間にいわばその実体性を確保する。
<30 労働運動>
反政治的なのは、労働だけである。
われわれは労働しているとき、共同世界と物世界から見捨てられて、みずからの肉体に投げ返され、命を繋がなければならないというむきだしの必然性に服しているからである。
労働によって制約されたこの社会的陶冶のうちで反政治的なのが、多数者が融合して一個の集団と化すこと、つまり複数性の廃棄である。これは、あらゆる共同体の正反対であって、その共同体のあり方が政治的であれ経済的であれ、そうなのである。
例外として、
労働運動は、労働組合運動の利益代表を超えて、まったく独自の政治的な独創性と生産性を、しばしば示してきた。だが、労働組合が真に革命志向であったことはない。 労働組合の関心事は、社会や、社会を代表する政治的制度を、現実に変革することでは決してなかった。
労働運動は、社会の成員としてではなく、人間として行為し言論を交わす、唯一の集団として現われた。
また、労働者が人間となるのは、労働現場から立ち去ったときにはじめてであった。
<31 行為に代えて制作を置き、行為を余計なものにしようと試みてきた伝統>
行為し言論を交わす活動は、見栄を張ってせかせか立ち回ることに終わるものだし、政治というのは、いざという時を別とすれば、非生産的で無益なものにすぎぬ。
つねに問題となるのは、相互共存における多数の人びとの行為を、たった一人の人間しか必要としない何らかの活動に置き換えることである。つまり、複数性を支配しようと試みることは、公共性一般を廃棄しようと試みることと、つねに同義となる。
われわれは、目的手段のカテゴリーを用いることなくしては、政治の問題について語ることすら、ほとんど不可能である。
ゆえに、政治を、政治的なものの彼方に存するいっそう高次の目的を達成するための手段に格下げすることがひそんでいる。
<32 行為のプロセス性格>
制作のプロセスは、制作において力を出し切り、最終生産物が出来るたびに消えてなくなる。これに対して、行為の過程を解き放った力のほうは、総じて消えてなくならない。
為されたことのこの途方もないしぶとさは、人間の手によって作られる他のすべての産物を持続性の点で凌駕している。
彼自身が為したことの真の意味が明らかとなるのは、彼つまり行為者にではなく、せいぜい、最終的にその歴史を物語る人が往時を振り返って眺めるまなざしに対して、つまり行為などまったくしていない人に対してのみだということ
行為のみが、人間の自由を保証してくれるはずだし、またこの領域だけは、人間自身が生み出したもの。
主権とは自己自身に対する無制約的で絶対的な自律と支配のことだが、それは、複数性によって制約されているという人間の条件そのものに矛盾するため、人間的自由が与えられるのは、非主権という条件のもとでのみである。
<33 為されたことの取り返しのつかなさと、赦しの力>
取り返しのつかなさ
いったん為されたことは、元通りにすることができず、たとえ、自分が何を為したかを知らず、知るよしもなかったとしても、そうだということ
救済策は、赦すという人間の能力のうちにひそんでいる。
予測のつかなさ
それとともに、どんな未来の事柄にもまつわるカオス的な不確実性
救済策は、約束を交わし、守るという能力のうちにひそんでいる。
赦しは、過去に関係し、起こったことをなかったことにする
約束は、未来を指し示す道しるべのように、まさにやって来つつあるものを樹立する。
自分の意向を変え、新しく始めるつもりがあるかぎりにおいてのみ、人間は、自由とか始めるとかいった、かくも途方もない能力、かくも途方もなく危険な能力を、まがりなりにも取り扱うことができる。
<34 行ないの予測のつかなさと、約束の力>
予測のつかなさは、人間の心が底知れず不可解だからであり、「強情でありかつ弱気なもの」ゆえに昂じる。
人間が自由であることと引き換えに支払わねばならない代償として、将来を当てにすることもできない。その代償を払ってこそわれわれは、たった一人でいるのではないのだという喜びを得られる。
道徳は、少なくとも政治的領域においては、約束する力能にもっぱら拠らざるをえない。また、行為する存在であるかぎり人間がどうしようもなく晒されるリスクや危険に遭遇する覚悟を決め、許し許され、約束を交わし守る、といった善意志に、もっぱら支えられざるをえない。ともあれ、許しと約束は、道徳の指針と言ってよい唯一のものである。
人間は、なにも死ぬために生まれてきたのではない。そうではなく、何か新しいことを始めるためにこそである。
世界の歩みと人間的事柄の進行を繰り返し繰り返しさえぎる奇蹟である。
そもそも人間が生まれてくること、またそれとともに、生まれ出ずる存在のおかげで人間が行為しつつ現実化することのできる新たな始まりも生まれること、ここに「奇蹟」は存する。
《第六章 活動的生と近代》
<35 世界疎外の開始>
世界疎外=現われの空間が死滅し、それに続いて、現われの空間において方向を定めるための器官である共通感覚が萎縮すること
近代の入口には、三つの大いなる出来事
①アメリカの発見、つまりヨーロッパ人によって地球の表面がはじめて探査され占有されたこと
②宗教改革、 つまりそれをきっかけにして教会や修道院の領地が没収されたこと
④ 望遠鏡の発明、つまり新科学の発展
現代世界は、猛然と押し寄せてくる速度のあおりで、遠さも距離も消え失せてしまった。 速度が空間を征服したのである。
地球上での距離が小さくなることはいずれも、地球からの人間の距離が大きくなることの引き換えとなる。
地球人としての人類全体がそのように地球を占有したからといって、世界疎外のプロセスが停止するわけではない。
<36 アルキメデスの点の発見>
望遠鏡という器械を使うことにより、ガリレイは、地球に束縛された生き物の把握能力を、その肉体的感覚器官もろとも拡大した。
そして、現実を取り次いでくれるはずの感覚または感官はじつはわれわれを欺くものなのかもしれないという太古以来の怖れと、地球外の点を見つけてはそれを拠りどころとして世界の蝶番を外してしまおうとするアルキメデスの願いとは、両者が一緒になってはじめて、いわば手に手を携えて、現実味をおびたということを実証してしまったかのようである。
われわれは、この地上にいながら、また自然のただなかで、あたかも地球や自然を外から意のままに操り、アルキメデスの点を発見したかのように、ふるまうすべを発見したのである。
近代自然科学の発展全体の根底には、こうした大地からの疎外がひそんでいる。
人間は、大地に束縛されない宇宙的存在としての経験に対応するような条件を作り出したのである。
<37 自然科学とは似て非なる、宇宙的な普遍科学>
近代科学が、自然をすでに宇宙の立場から眺め、かくして自然を完全に支配し始めたのに対して、現代科学は、今や本当にすっかり「普遍的」かつ宇宙的な科学と化し、宇宙で起こっているプロセスを自然の内部へ導き入れている。
宇宙的な普遍妥当性が特有の意味をおび始めた。
地球上のあらゆる事象が相対化されているのは、宇宙で起こっている事象を基準とし、宇宙における地球の位置を規定する関係となっているためである。
現代人は、普遍的−絶対的なものを拠点にして事物を動かすということを、行なえるようにはなったが、その代わりに、普遍妥当的な絶対的概念を操ってものを考えるという、太古からの人間の能力(既成宗教の語彙や隠喩的内容)を失ってしまった。
<38 デカルトの懐疑>
近代哲学は、デカルトの命題、つまり「すべてを疑うべし」から始まる。
根源的な懐疑を、何らかのものがあるがままにある、という事態そのものに対して抱き、その懐疑を概念的に把握し多様に分節化すること、ここにある。
そもそも目に見えて明らかだということは現実を証し立てる証拠であるとか、そもそも理解できるということは真理を証し立てる証拠であるとか、そういった発想そのものを疑うのである。
デカルトの確信によって言い表せるは、救いは、人間自身のうちにのみ存しうる、ということ。デカルトは、 論理的明証から推論して、意識の過程に内属している確実性を導き出し、それによって、自己反省にみずからを打ち明ける意識の領野を切り拓く。
<39 自己反省と、共通感覚の喪失>
自己反省の対象は、もっぱら意識内容それ自身である。
意識とは、思考であり、思考作用とは、私は私が思考していることを思考する、という意味である。
デカルトの自己反省の真に天才的なところ
①デカルト哲学は、外界の実在性への懐疑を追い払うために、一切の世界的に対象的なものを、意識流のうちへ沈下させ、意識のプロセスによって脱実体化させた、という点
②普遍的懐疑を打ち破るデカルトの確実化の方法が、近代自然科学の諸発見から生じたごく当然の結論に、ぴったり対応している点
われわれの動物的な五感を、われわれ万人に共通な人間世界にはめ込ませてくれる共通感覚を、われわれが失ったとき、人間の本質としてわずかに残るものといえば、何らかの動物類に属するということだけである。
デカルトが試みたこの問題の解決の方策は、アルキメデスの点を人間自身の内に移し入れること、すなわち、現実の発見を何といってもまずもって可能にした知性構造と意識構造の内に移し入れることであった。
<40 思考認識する能力と、近代的世界像>
人間は、その世界の「転倒性」をもはや気にする必要がなくなり、いわば、人間は現実には大地に属しておらず、感覚的に生身のありさまでじかに与えられた地上的な事関係には制約されていないかのように、地球上を移動することができるようになった。
物理学の数学化が長足の進歩を遂げたおかげで、外界を認識するためには感覚経験を原理的に放棄できるようになった。自然に向けて立てられた問いに対して得られるどんな答えも、もはや感性的には直観化しようのない数学的な記号言語で語られている。
感性的所与が消え去るとともに、超感性的なものも消え去り、またそれとともに、具体的なものを思考や概念のなかで乗り越える可能性も消え去ってしまう。
<41 観照と行為の逆転>
精神的に最も重大な帰結であったのは、観想的生と活動的生との伝統的な位階秩序の転倒であろう。
観照と行為の関係を逆転させるに至った原則的な経験とは、純粋に理論的なものであった。 つまり、人間の知的欲求が満たされるのは、ひたすら直視することをやめる代わりに、手を出し介入して、人間の手の物である物を用いて実験するときにのみだということが、明らかとなった。
逆転の影響を概して受けたのは、思考だけであった。神的近代的思考様式の視野から完全に姿を消したのは、観想であった。つまり、真なるものを直し観察するという考え方は消えてしまった。
<42 活動的生の内部での転倒と、制作する人の勝利>
近代になって観想的生と活動的生の上下関係が転倒し、優位をたったのは、制作という活動だった。
しかし、制作し製造する者の立場から見れば、現代の世界像は「転倒した世界」像でしかない。なぜなら、手段つまり制作プロセスや発展プロセスのほうが、目的つまり制作され成長した物よりも重要になってしまっているからである。
制作する人の抱く持続と不死性への憧れは、美しいものや完全なものは作られることなどありえないと最終的に悟るに至ったときにのみ叶えられる。
観想的生は、活動的生の正反対だと自己了解しているかぎり、仕事に従事する生をまさしく否定することにその本質がある。
<43 制作する人の敗北と、幸福計算>
物それ自体から制作プロセスへ、近代において強調が移動したのは、制作や作ることに定位した人間から、かの確固たる定規や一義的な物差しが一挙に奪われた。
どんな時代にも多数の人間が、自分の行為の手引として、また自分の判断の基準として用いてきたのは、この物差しであった。
根本的価値喪失という出来事は、制作する人が自分のことを第一次的には、物の制作者にして人間の手による形成物の建造者だとはもはや見なさなくなり、自分はむしろ、道具の作り手であり、しかもとりわけ「さらなる道具を産み出すことになる道具」の製造者であって、そのさい物を産み出すとしてもほんのついでのことにすぎない、と自任し始めたとき、もう起こっていたのである。
<44 最高善としての生命>
観想的生に対し活動的生が勝利を収めたからといって、他のすべての活動に対する優位が、ほかでもなく労働に転がり込むことになったのはなぜか。
本来政治的活動こそ、世界的地上的なものが不死でありうるとの希望であった。ところが今や、人間的努力のこの最上位から格下げされ、生命に当然そなわる欲求と必要に強いられて、やむなく生ずる活動、という水準にまで沈み込んでしまった。
古代ローマ人の考えでは、共同体の「生命」こそ不死であったが、今やそれと入れ替わりに、個人の生命がその不死の位置に就いた。
生命こそ至宝つまり最高善だとする。
労働において実現されるような人間と自然との活発な物質交替が、ものすごい勢いで強められる。その結果、生命プロセスの多産性が増大することにより、ついには世界それ自体が、世界を存立させている生産能力ともども、自立性を脅かされるに至っている。
<45 労働する動物の勝利>
労働する動物はめざましい勢いで躍進を遂げ、近代社会を席巻してきた。その成功は、世界化または世俗化とふつう呼ばれているもの、つまり近代の信仰喪失のおかげであった。
近代は、人間のありとあらゆる能力と活動をかつてないほど活性化させ、かつてないほど幸先のよいスタートを切った。だが最後には、有史以来最も致命的で最も不毛な受動性で終わるかもしれない。
この制作能力を発揮できるのは、急速に、芸術方面の才能に恵まれている人びとに限られるようになってきている。その結果、世界に向けられた本来の制作経験は、平均的な人間的実存の経験地平からはどんどん消え失せている。
行為の性格とは、人格の開示と物語を産み出すことである。この両者は一体になって、人間世界そのものに意味といったものが形成される源泉となる。
思考するよりは行為するほうが容易である。活動的生のさまざまな活動のうちどれが「最も活動的」かといった問いでは、たぶん、純粋思考こそ、純然と活動しているという点において、最も活動的である。
<筆者>
ハンナ・アーレント(1906-1975)
・ユダヤ系ドイツ人
・ハイデガー、フッサール、ヤスパースから哲学を学ぶ
・1933年ドイツからフランスを経由して、アメリカに亡命
・1951年に「全体主義の起源」を刊行
・1958年に「人間の条件」を刊行
<感想>
アーレントは人間の活動に注目することで、科学の発展や危惧する労働の実態について、古代はアリストテレスからルネサンス、宗教改革、マルクスなど西洋が通ってきた歴史をもとに人間を見つめ直そうとしている。
活動的生の「労働」「制作」「行為」や観想的生での思考といったものに上も下もないとは言っているが、「労働」に関しては動物といい、「制作」には人、「行為」には複数人とその活動において呼び方が異なっている。また、思考に関してはこの本の最後に記されているが、思考は行為より難しいもので、人間の中で純粋な活動としている。このようなところを見てもアーレントの中での上下関係はよく見て取れる。
本書が書かれたのは1950年代ということで、科学もまだ人工衛星が打ち上げられ、原子力発電の開発がされた時期ではあったが、その大地から乖離していく人間の行為に対しての危惧は大きく語られており、今日にも精通する問題意識と共通する部分も多くあった。
また、第6章は近代からアーレントの生きた20世紀までを哲学者や科学者たちを持ち寄り、論を展開していくが、最終45節<労働する動物の勝利>での文章はそのまま私が7月まで住んできた東京の実態や批判するにはいまだ有効であることには驚きを感じた。
私が、今回選定理由に掲げたことを考えると、「労働」が勝利し、「労働」を疑わない時代が長く続いている今日が変化するためには、懐疑することから始め、「労働」「制作」「行為」の活動がフラットに認識し、バランスを持てる世界を目指すことが求める道であると考えうる。労働を批判し、排除を目指すことや、「行為」だけを追求できていた古代を夢見ることは適切ではないことの理解は容易に共有されるであろうし、本書での3つの活動の線引きが現代には強すぎるように感じる。
このゼミの主題である「地方創生」に当てはめて考えるとすれば、地域創生を目指すことは行為である。この行為がアーレントのいう人間関係の網の目に新しい糸として絡み合い、その土地の物語を形成していく。人が集まり、関係を育んでいく中で、何らかの制作や労働が介入していくことが、持続的な地方創生につながるのではないだろうか。
〈以上要約〉
ゼミ主催あとがき
本書は言わずと知れたハンナ・アーレントの主著『人間の条件』のドイツ語版の再訳である。哲学、政治学、社会学などをかじったことのある人であれば、一度は聞いたことのあるタイトルであろう。
本書出版の経緯は些かややこしいので、実際に本書を手に取って確認してほしいのだが、一つだけ言えるのは『人間の条件』よりいくらか読みやすくなっているという事であろう。とはいっても、かなりの大部であるから、読み切るにはそれ相応の覚悟と予備知識が必要なのは変わりないのではあるが……。
版元によれば、本書は現代の古典とよんでも差し支えないとのことで、実際インターネットで検索すれば、いくらでも解説が出てくる。なので今更ここで私が書き加えることは無いだろう。
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