気軽に気長に生きるのだ
何かを始めようとするときは、意気込んでスタートしたくなる。
これくらいのレベルまで一気に進みたい、それも可能な限り短い時間で。
そんな想いの強さがスタートダッシュを生み出してくれる。
最年少優秀賞とか、史上最短記録とかっていうのは、なんとなくでもかっこいいと感じてしまうのだ。
だから、自分もどうにかそうなろうと最初は意気込んで頑張ろうとする。
それが長く続けばいいのだが、どういうわけか一瞬で路線が変わる。
理由はさまざまで、たまたま急用が入ってしまったのか、今日は友人と遊ぶ約束があったとか、体調不良になったとか。
始めたときと少し状況が変わってくると、「やむを得ず」中断することになる。
その「やむを得ず」が結構な大敵で、最初に抱いた強い想いを鎮めさせる効果がある。
理由はどうあれ、中断させられたものを再び動かすのは難しい。
よく自転車で例えられたりするが、止まってしまうと動かすのにかなりの力が必要であるということである。
それはモノだけでなく、人の心も同じというわけだ。
だから、なるべく止まらないようにしましょうというのが、よくある対処方法になるわけだが、
実際のところ止まらないようにって言われたって、止まらざるを得ないことはたくさんある。それこそほぼ無理な話である。
それはもう仕方ないと割り切ろう。
じゃあ、どうするかという話だが、
そもそも止まったと思う必要自体ないのではないだろうか。
今日できなかっただけで、別に止まっていない。
昨日はできているし、明日もきっとできる。
たまたまなのだ、今日できなかったのは。
1日単位ではなく1週間単位で見てみれば、当然進んでいると判断できる。
少々スタンプカードに穴ができてしまったっていいではないか。
明日でも明後日でも、またできるのであれば。
1日を大切に過ごすのはもちろん大事。
でも、1日を重く捉えすぎるのは少し違いそう。
毎日欠かさず続いていることを称賛しすぎる心を持つと、何かに対する自分の荷が重くなるだけだろう。
価値基準から、「欠かさず出来ることは優秀」という概念を外してもいいのかもしれない。
それに苦しんできている人は。
ぼんやりとでも続いていれば、時によって不思議と発見があるものだ。
どうあろうと続けばいい。
楽しめる程度だとしても。誰かに本気じゃないと言われたとしても。
じゃあ、続かなくなるとはどういうことか。
別に今日できなかったとか、今週できなかったとか、そんな期間的な話ではない。
またやればいいのだから、大した問題ではない。
大した問題になってしまうのは、自分が始めたことを忘れてしまうことである。
忘れたら、意識が向くことは二度とない。
久々に引っ張り出してみることもできない。
せっかく始めたのだから、ぼんやりと続けてみることを許していいのではないだろうか。
極論言えば、覚えていさえすれば、続けたことにしたっていい。
だって覚えているのだから。
ふとした時に新しい発見もあるかもしれない。
気軽に気長に覚えておこう。
また今度、引っ張り出してみることができるように。