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好きじゃなくなることと向き合う

僕は文章を書くことが好きである。
それほど苦もなく書けているのではないかと思う。

1000字書いてと言われてもそれほど何も思わずに書き始めることが出来るし、ちょっと気合を入れれば5000字くらいなら平気で書ける。多分。

これはきっと好きだから書けているのだろう。

他にも1日中読書をしていてもそれほど疲れすぎることもなく読んでいられる。
ちょっと前は毎日数時間、読書を続けるということをしていたこともある。

やっぱり好きなことなら出来るんだ、
自分の身の周りを好きなことで固めてしまえば、すごく楽しく生きているんじゃないかと思い、一時本当に好きなものだけに囲まれる環境を作ったことがある。

たしかに幸せを感じていた。

しかし、同時に「あれ、前ほど好きじゃないかも」なんていうことも感じるようになった。

好きなものは好きだから、それ以上でもそれ以下でもないという考え方を持っていたわけだが、案外そんなこともないらしい。

好きには波が存在して、それを眺めるだけで楽しいと思う時もあれば、眺めてみても触れてみても楽しいと思わない時がある。

そういう時は決まって、ああ好きじゃなくなってしまったのかと思ってしまうのだが、そんなこともなくて「今この瞬間好きじゃない」だけである。

実際、久しぶりに眺めたり触れてみたりすると、ものすごく好きな気持ちが湧いてきたりする。

そうすると、

あれ、やっぱり好きだったのかと思う。
気持ちの波とは不思議なものだ。

何はともあれ、

まずは「好き」には波があるものだから、そう感じない瞬間もあるよねという自認はあった方がいいかもしれない。


ここで改めて考えておきたいことがある。
今好きなことを本当に続けていくことはできるだろうかということだ。

例えば、目の前に好きな人がいたとして、進んで色々なことをしてあげられるとしよう。
「気にしないで、僕が好きだから全然いやじゃないよ」という言葉を何度か聞いたことがある。(自分の声だったかもしれない)

その瞬間はいいだろう。
相手もこういうことが好きなんだなという風に受け入れてくれるものである。

しかし、気づくと前と同じ度合いの好きとは変わってきて、なんだか前と同じようには色々と出来なくなってくる。

そうすると、前はこんなことしてくれたのに、今はもうしてくれないんだねみたいな話になったりするわけだ。

好きだから何かをするということを基準にすると、何かをしないということは好きじゃなくなったという証明になってしまう。

わざわざしないようにしたつもりはないとしてもだ。

それは自分が好きで始めたことだとしても同様である。

好きが一番強い瞬間に行ったことをベースに置いてしまったとき、それは自分をとても苦しめることになる。

前はあんなに平気で出来たのに、どうして出来なくなってしまったんだろう。
好きじゃなくなったから、出来なくなってしまったのだろうか。
自分なりに好きだから頑張ろうと思ってたのに…

そんなことしたくもないのに、自分自身の気持ちを否定してしまうことだってある。

それに、好きという気持ちが変わってしまうのは、なんだか寂しい。

いつまでも同じものを好きではいられないんだなというような、ある種の現実を突きつけられた気持ちになる。

好きだから、という気持ちを主軸に生きているのなら尚更だ。


じゃあ、好きという気持ちを無視しておいた方がいいのかということになるかというと、当然そんなことにはならない。

やっぱり好きという気持ちは人を動かすエネルギーを持っている。
何かを始めるという一番難しいことを軽々と越えさせてしまうのは「好き」の存在の影響は大きい。

大事なのはその後で、ベースを高く持ちすぎないでおこうということだ。

「好き」は全く当てにならない。

今日好きなものが明日はそうでもないように見えることがある。

それは、雨が降っていたから気分が乗らないなんていう、
とんでもなく小さい理由であるかもしれない。

人間の気持ちというのは、本当に何に影響されているのか分かりづらい。
これまで何かを溜め込んでしまってたことで、突然決壊するなんていうこともあるわけだが、何を溜め込んでいるかはよく分からない。

気持ちがよく分からない以上、
「好き」という指針が揺らぐのなんて、日常茶飯事のことなのだ。

その気持ちが最高潮に達しやすい開始初期では、なんでも出来るような気がするわけだが、そんなことはない。

であれば、どうしていけばいいというのだろう。

簡単に言ってしまえば、「好き」という気持ちの負担を軽くしてあげて、いつでも指針を交換可能な状態にしてあげることだと思う。

何かを継続していくためには、「好き」以外にもいくつか指針を持っておくということだ。
続けていきたければの話だが。

だから、僕も文章を書くことが好きだから、平気で書けちゃうよなんてことを言っている場合ではないのである。

それは好きの波が下がった時に何もできなくなるリスクでしかない。

波が下がったことを好きじゃなくなったと判断し、忘れ去ってしまうことはとてももったいない。

波があるだけで好きなことに変わりはないのだから、波が低い時でも細々と続けておけば、波が高くなったときに一気に力いっぱい進めるものだ。

「好き」を全てにおいて当てにしてはいけないが、利用するのは大いに結構という話である。

もし今この瞬間は好きじゃないかもなという気持ちがあるのなら、無理に好きでいようとし続ける必要はない。
他にもいくらだって理由はあるはずなのだ。

もしかしたら、今違うものが好きで、元々好きだったものと親和性がある部分もあるかもしれない。

全てのことを独立させず、うまく絡み合った状態にしておくというのも、継続していくための知恵のひとつなんだと思う。

さて、僕はどんな理由で文章を書いていこうか。

一緒にnoteを書く友達がいてもいいかもしれない。
ひとりでできないことだとしても、友達がいれば続くこともあるというものだ。

思い出として残して後から振り返りたいからという理由でもいいかもしれない。
過去に何をしていたか分かる絵日記みたいなものはいつ見ても面白い。

なんだっていいはずだ。細々と続けていけるのなら。

「好き」だからという波のある気持ちだけに縛られず、大いに楽しんでいける方法を模索していきたい。

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