大作を書きたいわけじゃない
日常を切り取るようなことを書きたいのである。
いかにすごい生活をしているだとか、キラキラした生活しているだとか、
たしかに憧れる部分がないと言えば嘘になるけど、絶対にそうなりたいかと言えばそうでもない。
夕方のニュース番組を観ていると、たまに猫を救出したというニュースを目にすることがある。
なんて平和なのだろうか。
あのニュースを観て、誰かが不幸になることは想像できない。
もちろん無関心である人はいるだろうが、不幸ではないだろう。
日常のすべての一幕に関心を持って行動するなんてできないのだから、無関心くらいが丁度いいのだ。
変に関心を持ちすぎると、
あの救い方じゃ怪我をしてしまうからこうするべきだとか、そんなことに時間をかけるべきではないとか、
なんだかややこしい話まで出てきそうである。
ちょっと遠目でそんなこともあったんだね、というテンションでいるくらいの方が相手も自分も入り込みすぎなくていいんでないかと思う。
なんだか少しずつ話が逸れてきてしまったが、
派手さの指標に囚われてしまいたくないという話だ。
インパクトある映像に、インパクトある言葉を並べ、衝撃的な展開を作り出す。
一度でも人の目に触れたなら、もう目を離すことはできなくなるようなそんな作品。
それが時間もお金も労力もかけた大作だ。
人の目を引きつけて離さないモノを生産できる能力というのも、とても魅力的なのだが、そればかりでは疲れてしまう。
それは観る方も、作る方もどちらもである。
より過激に、より衝撃的にという方向に進んでしまうと、残されるのは刺激に慣れすぎて、ちょっとやそっとでは動かなくなってしまった心だけになる。
そうではなくて、無関心ではあるけど、なんとなく目に入るし耳に入る。
日常に溶け込んでいるから意識しないと気づかないが、いざ無くなると違和感がある。
そんな作品が案外、心を支えていたりするものである。