「自分なりの『問い』」を持つとは
ざっくり言ってしまえば、自分らしさを明確にしていくことなのではないかと思う。
「自分なりの『問い』」の定義は、自分が解決に向けた行動をしようとしない限り絶対に進まないこと、誰かが代わりには進めてくれないこと。
志望校合格のために勉強したり、自分の意中の人と一緒になるために何かしらの努力をしたり。
他にもたくさんのことがありそうだけど、なんだかぱっとは思いつかない。例題はこれで勘弁してほしい。(もし振り返った時に思いついたら書き足してね)
本当の意味で自分にしかできないこと、そもそも自分が自分のために問うのだから、自分以外にはできるわけがない。
もちろん、何かを進める時に誰かに助けを求めることはできる。世の中大抵のことは、自分よりうまくできる人がいるもんだ。
ただその誰かが先導してくれることはない。
どうやって進めようとするか、どこに辿り着きたいのかを決めるのは自分である。
じゃあ、どこに辿り着きたいのかを考えるにはどうしたらいいの?という話になるわけだが、そこで冒頭の「自分なりの『問い』」に話が戻る。
日常を生きていく中で、ふとした時に浮かぶ疑問というものは実は多い。
もしそんなにないと思うのであれば、忘れてしまっている可能性が高い。
また、仕事でも趣味でもいいが、何かに対しての自分なりの見方は持っているものだ。それは今までの経験だったり、知識だったりが掛け合わされて、作られていくものである。
しかし、「自分なりの見方・考え方を持っている、だからこれは自分らしさである」としたいところだが、それは少し早い。
実際のところ、自分なりの見方というのはとても曖昧なもので、時期や場所、気分によって変わってしまう。それは仕方ない。だって、気分が下がっているのに「楽しい気分でいろ」と言われても困る。
今日はいつもより元気だから、なんだかいつもより良く見える。今日はいつもより気分が下がってるから、悪く見える。それでは自分なりの見方を持っているとは言い難い。
じゃあ、どうしていくの?という話だが、ここから先が難しい。正直なところ、ここを一番誰かにやってほしい笑
とても難しく、大切なこと。
それは、自分がどういう見方をしているのか、なぜそういう見方をするようになったのかを考え、言葉にしていくことである。
すると、「自分なりの『問い』」が見つかるようになってくる。
これまで曖昧にしてきていたのものが、なんとなく形を帯びて見えるようになってくる。
見えたと思ったものが、急に見えなくなることもあるかもしれない。
真反対のことを考えることがあるかもしれない。
その時は、順を追って見ていけばいい。
見えたと思った時に何を感じていたのか、直近でどんな出来事があったのか。
見えないと思った時に何を感じていたのか、直近でどんな出来事があったのか。
形にしようとすることをやめなければ、形は色々あれども、後に残っていく糧になる。
いつかよく分からないことになったら、そこに戻って考え直せばいい。
戻れるふりだしはいくつ残していてもいいのだと思う。
拠り所がまったくないよりは。
さて、「問い」を形にしていくという作業だが、明確に形にしようとすると、思っている以上に数を多くて、何が何だか分からなくなってしまうおそれがある。
形にしようとすれば、思っているよりも疑問が多かったことに気付くことになる。え、こんなに何でもかんでも考えてたの?という話である。
今まさに僕自身がそうなっているから、「問い」について考えているわけである。自分なりの見方というものはあるにはあるわけだが、ちゃんと言葉になっていないので、目の前にあらわれたときに反応するしかない。
「反応する→分かった気になる」の繰り返しなだけで、深めていくことが全然できない。
流れに任せてる状態を変えていくためには、押し流されているものをひとつひとつ形として掴み、そして並べる。
簡単に言ってみたものの、並べる作業って案外難しいのよね。並べ方だけで見え方って変わってしまうのよ。
だから、どうやって並べるのかのためを置いておこうと思う。
(次見たとき、なんか違うと思ったら書き換えてね)
自分は今どんなことを問うているのか?
何に関連していることなのか?
深めていくポイントはあるのか?
根元にこの「問い」を持ちつつ、様々な問いに接するという姿勢を持っておきたい。