釣られた魚こそ餌がほしい
生きるということはまあ長い。
今は100年も生きなければいけないらしい。
そんな長い時間をどのように使えというのだ。
今まで一番長くやったことはなんだったろうか。
ぱっと思いつくのは野球か。
小学生から始めて、気づいたら大学までで10年くらいやっていた。
社会人になってから洗濯が面倒すぎるので、全くやる気にはならないが。
人生の中でもかなり長いことやっている印象だったけど、たった10年しかやっていない。
それ以外に長くやっていることはあるだろうか。
何も思いつかない。
どうしてだろう、もう20代も後半だ。
野球以外にも5年以上やっていることがあってもおかしくないはずなわけだが。
ときに人は、始めることを難しいと考える。
新しいこと、前例がないことをやろうと決意するのは簡単ではない。
どうしたらいいのか分からない、始めるイメージが湧かない。
自分にできるはずがない。
理由はなんだってあるわけだが、とにかく始めることへのハードルを強く感じる。
一方で、新しいことはとても刺激的で、これまでの感覚を一変させてくれる。
好きな人にとってみれば、ハードルよりも刺激に対する喜びの方が大きく勝る。
それはたまらなく素敵なモノだ。
刺激が薄まってくれば、新たな刺激を求めてさらにへ遠くへ旅に出る。
ただ、まあ何かを自分で始めることが難しいのは変わりないので、多くの場合もう少し簡単でかつ新しさを受け取れるものを選ぶ。
「買い物」だ。
個人的な話をすれば、
ものすごく読みたいと思ってた本をついに買ったと喜んでいたはずなのに、翌日たまたま目に入った本を勢いで買っていることもある。
内容ではなく、買ったことに満足している典型例。
不思議なもので新しいモノを買うと、何か特別なモノを手に入れたんじゃないかと感じてしまう。
実際まったくそんなことはないわけだけど。
新しさというのはそれだけで、他のものと差別化される。
しかし、その期間は驚くほどに短い。
今日新しいモノコトは、明日には普通になって、
さらに時を重ねると、ついには古いと言われ始める。
この間新しく買った本も、新しく始めた趣味たちも、何だか手に入れたり、始めてみると大したことない。
自分の手の内に収まる前はあんなに輝いて見えたのに。
そうなってしまうと、また新しい方向に目が向いてしまう。
元々新しかったモノはどんどんさび付き、触れられることもなくなっていく。
どんどん辞めては、何かを始める繰り返し。
刺激による満足は持続力が短いために、次から次へと新しいことが必要になる。
そんなことをいつまでも続けていいのか。
新しさからの刺激は、ただ受け取ること以外は許されない。
いかんせん刺激が強いのだ。後光が輝きすぎている。
目移り激しく生きてきた。飽き性とでも言うのだろう。
30年近く生きているはずなのに、続いたものが少ない原因なのではないか。
困ったものだ。
僕はもう刺激を受けることに慣れている。
もはやただの日常と化している。
それでもまだ、刺激が僕を変えてくれると思っている。
新しい何かを拾っては捨てるを繰り返し、これは自分には合ってない、もっといいものがあるはずと思い続ける。
もうそろそろ気づいているだろう、認めてもいいんじゃないか。
刺激自体は一瞬の輝きで、後の自分へそれほど影響したりはしない。
新しさが自分を変えるわけではない。
「新しい」を重要視し続けていたら、今後一生何か新しいことを探す羽目になってしまう。
短期の刺激を追い求め、振り返っても記憶にも残らないようなことを積み上げる。
そんなことばかりでは、残りの長い人生が、なんだかしょうもないものに見えてくる。
だから、ひとつだけ、考えてみてほしいことがある。
価値基準から「新しい」を外してみよう。
もしかしたら、ついつい目移りすることもあるだろう。
「新しい」というだけで手を伸ばしたくなることもあるだろう。
そんな時に、そのまま引っ張られずに、何か別の価値基準で判断できるようになってほしい。
せっかく一度手にしたのなら、長く続けてもいいはずだ。
まだまだ随分先は長い。楽しみ方を見つけるための時間もある。
自分の中で価値基準が見つかれば、もうその先で「新しい」ことに振り回されることもなくなる。はず。
さて、こんなところで締めということで、
スタバのメロンフラペチーノでも飲みに行ってみようかしら。