穂高小屋番レスキュー日記
『穂高小屋番レスキュー日記』を読んだ。穂高岳山荘で過ごした宮田八郎さんの手記だ。不思議な明るさのある日記だった。著者の人柄によるものなのかな。
山で遭難者が出ると県警の山岳部隊だけでなく、山小屋からも小屋番と呼ばれる人たちが民間救助隊としてレスキューに向かうらしいことを知った。
遭難者の救助である。滑落して亡くなっていたり、生きていても意識混濁しており低体温症で危険な状態だったり、とにかく普通の状態ではない。それでもハチこと宮田八郎さんは淡々と「できること」をしていく。レスキュー隊の仲間と半ばお祭りのような熱量で危険を掻い潜り、遭難者を背負い或いは遺体を収容し、その次の瞬間には山小屋に宿泊する登山客の食事を作るために忙しく働く。その様子は、死を少し遠いものとして扱うことで日常を保っている自分からすると、歪な形をした不安のような、ヒヤリとするものを感じる。
運んできた遺体はヘリが飛ぶまで冬期小屋の土間に安置したのですが、ようやく雨から逃れて屋根のあるところに落ち着いた皆は、ヤレヤレとばかりに一斉にタバコを口にしました。その煙と濡れた体からの湯気とで狭い土間はモウモウとなって、(「あぁ、なんか線香を焚いとるみたいやな……」)などと思いつつぼくは佇んでおりました。
生は死と隣り合わせである、という事実を常に意識せざるを得ない山で過ごすこと。その孤独と清潔さ。一方で人として、仲間と冗談を言い合いながら”普通に”生きること。本書内で登場する仲間たちが次々に亡くなっていってしまうこと。既にご本人もこの世にはいないこと。
素朴な語り口のこの本から『ある期間存在していた人たちのある地域における出来事』を確かに読んだ、という愛おしさと寂しさを強烈に受けるのは何故なんだろう。
死が結果だというのであれば、人は皆いずれ死んでしまうということだけです。死はその生の結果としてあるのではなく、山へ登ることの一部としてそもそもそこに存在しているものです。 だからぼくは「人は山で死んではならない」のではなく、「人は山でより生きねばならない」と記すべきであるのでしょう。
生死なんて自然の摂理としては当たり前のことなのかもしれないけれど、その事象に係る経験を通じて思考を重ね誰かに伝えたいと思い書かれた言葉が持つ強度、山に生きる人の認識のソリッドさと人情、みたいなことを考えながら読みました。