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アナザースカイの話


年に何度か、豊島美術館に行く。幸い香川に在住しているので、船が欠航していたり休館日ではない限りは思い立った時に行くことができる。


しかしながら、コロナが広がってからはそこはかとなく家で過ごす時間が増え、昨年は行けずじまいだった。
毎年、気候が良くなってくると「よし、行くか」となるのだけれど、昨年はどうにもそういうわけにもいかず。今年の春も見送ったけれど、本格的な夏が訪れる前に一度行きたいな、という気持ちはあった。
夏の瀬戸内海はとても美しいが、いかんせん過酷だ。なるべく外を歩かず、走らずを心掛けても、島内のバスの便数が限られており、結局酷暑の道を歩くか、自転車に頼るほかない。

自転車で風を切るのはそれはそれで気持ちがいいし島内の主要交通手段だけれど、坂道が多いのでなるべく気候が穏やかなうちに一度行っておきたかった。


……と、そんなことを考えているうちに夏が来る方が早かった。
早々に梅雨が明けたかと思えば、例年より早く夏が来た。本当にまだ六月なのかと疑いたいところだが、真夏並みの暑さが襲っている。

熱中症アラートが真っ赤に点滅する中、今日しかない!と豊島に向かうことにした。来月は忙しそうだし、今月は今月で忙しかったので、新しい月が始まる前に一度気持ちをリセットしたかった。

幸い仕事が連休で、特に予定がなかった。どこかに泊まりで出かけることも考えたけれど、島に行こう、と思い立ったのだ。

日焼け止めを念入りに塗り、帽子を目深に被り、普段は忘れがちな日傘も鞄に潜めた。
その日傘は後々辿ると雨傘だったのだが、まあそれは置いておく。なんだかやたらとツヤツヤした日傘だなあ、と思ったのだ。


特にアートや美術に明るいわけではないけれど、美術館という場所が好きで、時々思い立って赴く。
しんと静かで、よくよく計算された余白があり、そして程よい緊張感がある。美術館とか博物館とか、そういった場所が昔から好きだった。幼い頃図書館が好きだったことに、ルーツを辿れば行き着く気がする。

今回目的にした豊島美術館は、それまで訪れた美術館の中でいちばんに好きな美術館だ。
最初訪れた時の感動が未だ色褪せず、それから一年に一度はふらりと訪れるようにしていた。

何度訪れても「いいなあ」と思う。何がそんなに、と問われると建物も好きだし場所も好きだし音も好きなのだけれど、あの空間の居心地の良さがとにかく好きなのだ。

特に絵や彫刻が飾られているわけではない。だだっ広いコンクリートの空間だ。ある友人が「宇宙船みたいだね」と言ったのがやけにしっくりくる、UFOみたいな不思議な形をした建物。言葉にするとそれだけの話なのだけれど、何度も行く価値がある美術館だと、私は思う。

前述通り、居心地の良さが好きだ。館内では各々が好きに過ごしている。寝転がったり座って目を閉じたり、館内をゆっくりと歩いてみたり。音がよく響くので、基本的に誰も喋らない。けれど目を瞑っていても自分以外の誰かが同じ空間にいるのはわかる。
息の音、衣擦れの音、鞄のチャックを開く音、パンフレットのページを捲る音、忍び足の足音。
どんなに音に気をつけていても、些細な音は生まれる。まったくの無音ではない空間が、とても居心地がいい。
相反すると自覚しながら言うけれど、ほんの一瞬、「自分以外の誰の存在もないような時間」がある。その時間も、いっとう好きだった。

私はこの場所によくぼんやりするために行く。日頃から意外とさまざまな物事を頭の中で考えながら生きている性質だけれど、ずっと考えっぱなしというのも気づかぬうちに疲れるものだ。そういうのを一度断ち切りたい時に、「あっ、いこっかな」と思う。それが豊島美術館だ。感覚的には「座禅しよっかな」の感覚に近い。無になりに行く、というか。

人によって様々だとは思うけれど、人は絶えず考えて生きている生き物だと思う。
仕事の段取りがどうとか、対人関係がどうとか。そういう「考える」はもちろん、赤信号になったら止まらないとと思うし、お腹が空いたら何か食べなきゃな、と思う。そういうこともひっくるめて考えるということだとしたら、人は考えなくては生きていられない生き物ということになる。
生きていく上で必要なものを故意的に引き剥がすには、何かしら特別なことが必要だと思っている。これが誰かにとっては知らない土地に行くことであったり、眠ることであったり、それこそ座禅を組むことであったり。豊島美術館に行くという行為が、私にとっての「特別」なんだろう。

なにぶん静かな空間なので、行く前は「このこと考えよっかな」と思いながら現地に向かう。
考え事は、総じてほどよく静かな場所の方が捗る。ここで大切なのはまったくの無音であってはならないということで、まったくの無音のだだっ広い空間にひとりで取り残されたら、きっととてつもなく心細く、そわそわと落ち着かないだろう、ということ。
平日の昼過ぎ、人もまばらなファミリーレストランで自習をした方が勉強が捗る。家で一人きりの無音の空間で暗記をするより、図書館で知らない誰かと机を並べた方が捗る。そういうことと同じことだと思っている。これも人によって個人差はあるだろうけれど、こういうことを考え気付くとき、自分に対して「意外と一人が嫌なんだなあ」と思うものだ。

大抵のことは一人でやった方が気が楽だ。買い物も、旅行も、外食も、誰かとするそれらももちろん楽しいけれど、ずっとひとりの時間が持てないと、私は逆にストレスが溜まる。だからずっと自分は一人が好きなのだと思い生きてきたし、今でも少なからずそう思っている。けれど昔から、友人には総じて「意外と寂しがりやだよね」と言われることが多い。そういうことか、と思った。

豊島美術館の居心地の良さは、そこなのだ。
面と向かって喋るわけでもない、顔も知らない赤の他人と、適切な距離を置いて空間を共有している。顔も声も知らない相手だし、愛想を振りまく必要も、顔色を疑う必要もない。ただただその空間に誰かがいる、ということが、あの居心地の良さに繋がるのだ。

人によってはあの静寂が物足りないと感じるかもしれないし、あの空間はなんだか据わりが悪い、と思う人もいるのかもしれない。
ただ、私はあの美術館が本当に好きだ。船酔いの恐怖と戦ってでも行きたいと思う。
雨の日も風の日も晴れた日も曇りの日も、いつでも等しく美しく、居心地がいい。

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陳腐な話だけれど、天国とか楽園が存在するとしたらああいう場所なんだと思う。こういうことを考えるとき、つい「ここがわたしのアナザースカイ!」なんて台詞が飛び出そうになる。私にとってのアナザースカイは、確実に豊島美術館である。


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ohagi
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