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ダークサイドを眺める

自分の中や外に「許せない」ものが多いと

病気になるという。


最近、

自分のデフォルト(標準仕様)のソフト(精神、考え方)では、

持って生まれたこの身体を早く消耗してしまう気配に

切迫感が出てきた。


簡単にいうと「自分の心に従って生きてる」と「身体がしんどい」のだ。


それをカウンセラーに相談すると、

私が持つ価値観、

「許せないもの」が

自分自身をがんじがらめにしている、

という指摘を受けた。


その指摘は、

わかったようでわからない、

ピンとこないようででも言わんとすることは大体わかる、

ようななんともスッキリしないものだったのだが、


要は

「答えは自分の中にある」

ということなんだと解釈した。


答えは自分の中にある。

目の前の人が原因なのではない。


自分の中にあるものを世界に映し出しているだけ。


許せないものが多い人は、

許せない人が多い。

許せないことが多い。

許せないものが多い。


なぜ、許せないのか?

それは自分の中のダークサイドを許せないからなのかもしれない。


「恐怖」

「焦り」

「不安」

「怒り」

「寂しさ」

「無価値感、自己否定感」


先月悪化した蕁麻疹の診察で

私のお腹を触った皮膚科の医師が

「焦り、とか、不安とかがここを硬くします」と私がよく胃痙攣を起こすみぞおち付近を指した。

「肝臓は感情の毒も解毒する臓器なので、解毒のキャパを越えると、皮膚にでてきます」

処方されたのは「不安感をやわらげる」成分が入った漢方薬で

でも医師は

「思考のパターン、ものごとの捉え方を変えていくことが、一番大事」と言った。

「何かくよくよしはじめたら、大丈夫、って言葉を自分に使ってください」とも。


「焦り」が常にある。

「不安」が常にある。


「大丈夫」は

小さな頃の私にはその二つの感覚に比べて存在感が薄すぎた。

「大丈夫」と逆の言葉が常に毎日のように同居の祖母から与えられていた。

祖母は常に無条件に自分の思い通りにならない世界の全てにおびえていた。「心配だ」と。


私には周りの家族の誰もが心から「大丈夫」には見えなかったし、

常に一人の時も、家族の時間についてる居間のテレビからも「大丈夫」は受け取れなかった。

「世界が、みんなが(私が)大丈夫になるためには」

そんなことが無意識に自分の行動を選ばせた。

望まれたわけでもないのに。


そのデフォルトのまま、走ってきた。

恐怖に備える行動を。

焦れば力がでる。

不安になれば力が出る。

でも、思ったより早く力が尽きそうだ。

こんなに身体が拒否してる。自分の今までの心のままに生きるのを。


「焦り」

「恐怖」

「不安」

「怒り」

「寂しさ」

「無価値感、自己否定感」

いっそそれに抗うより、

そこから逃げようとするより、

眺めてみてはどうだろう。


暗い自分の裏側を

「思ったようにならない自分」と

一つ一つ、

丁寧に話してみてはどうだろう。

どうだろうっていうか、

もう、子どもが成人するまで生き延びるには

そうするしかないって思うような

こころが身体に反映してしまう切迫感なのだった。







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