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親ガチャにハズレた私が言いたいこと

親ガチャ。

世間から見れば、私は親ガチャに「ハズレ」た子供かもしれない。

ハズレた側として一番言いたいことは、「親ガチャ」で物事を見るよりも、私が今どう生きているのか、これからどう生きていくのかを見てほしい。

私は親ガチャという言葉が、「◯ね」くらい嫌いだ。人の人生にアタリとハズレを決めて優劣をつけるみたいだから。

「親ガチャ」と言うのがしっくり来る、心の痛みが緩和されるから使う人もいるだろう。私も感情論を抜きにすれば、うまい例えだなと思った。

でもハズレの私が「親ガチャ」という言葉を聞くと、自分までクズな人間に思えて虚しくなる。親ガチャに失敗したから、私の未来もハズレなのかとも考えてしまう。

アタリを引いた人の中には、安堵する人もいるだろう。ハズレた例を見て、「自分は恵まれてる。良かった」と思うのではないか。優越感を持つのは人として普通の感情だから、何も思わない。でも「親ガチャ」という便利な言葉で、誰かの辛い経験を軽んじているような響きが気に食わない。

親ガチャという言葉は嫌いだが、親が子供に与える影響が大きいのは事実だ。親がもっとちゃんとしてくれたら、教養や心の成長もスムーズにできたんじゃないか。

どれだけ望んでも子供に戻ることはできない。失った時間も愛情も戻って来ない。親に愛されて育った”アタリ”な人を見て、嫉妬する気持ちと付き合うのだって難しい。

でもハズレたからといって、子供が必ずしも親みたいになるとは限らない。親と私は血が繋がってるだけで、別の人間。

取り戻せなかったことを悔やむよりも、親のせいにするよりも、自分がどう生きたいか、どうなったら辛さが軽減できるのかを考える。そうなるにはどうすればいいのかを考えてから行動する。

中には、「あなたは恵まれているから」と言う人もいる。そうですと言っても、違いますと言っても、そういう人たちには私の声が届かないのはもどかしい。

恵まれてから、何かを頑張ったんじゃないよ。自分が頑張り始めたから、人と環境が変わり始めた。人はきっかけやサポートをしてくれるだけで、頑張るのは私しかできないと痛感する。

ガチャガチャ言ってもしょうがない。気楽にぼちぼちやっていこう。

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