空港で見かけた女の子と私の後悔
昨年10月、バンクーバーからウィニペグに帰る空港でこんなことがありました。
手荷物検査場で、私たち夫婦の前には10代前半くらいの女の子とその母親らしき人たちが並んでいました。母親のほうが、持ち込み禁止品(スープや水入のボトル)を没収されたらしく、検査員と口論になっています。
「私のものを返せ!」と怒鳴る母親。もちろん返すことはできないと、検査員の人は丁重に断り続けます。理解できない!、と怒り心頭の様子を目に、私としては、「持ち込み禁止のものを持ち込む方がダメなんじゃ…?」と思っていました。母親の隣にいる娘はうつむいて、怯えているようにも見えます。
しばらく粘っても返してもらえず観念したのか、検査員に悪態をつきながら荷物を片付ける母親。その時、今まで脇に控えていた女の子の方がハッと顔をあげて、母親の片付けを手伝おうとしました。その瞬間…
「触るな!余計なことをするな!」
と、検査員につっかかっていた以上の剣幕で女の子を怒鳴りつけたのです。空港内は、誰もいなくなったみたいにシンとなりました。周りでは目を伏せる人、怪訝そうに見つめる人、驚きを隠せない人、私たち夫婦も圧倒されました。何よりも戦慄したのは、感覚的に、彼女がこういった扱いを受けるのはこれが初めてでは無いように思えたこと。ムチで打たれて調教される犬のように、体をすくめ、どうして良いか分からずただ怯え震えていました。
今にも割って入りそうな様子の私の旦那さんの横で、私まで身がすくんで何もできなくなっていました。母親に怒鳴られているその娘の気持ちは、小さい頃の自分や、自分の妹、弟を見ている気持ちそのまま。急に自分の周りだけ空気が薄くなったような息のしづらさでクラクラしました。
怖い…
検査員に諭されて、ようやく事が収まるまで、私の緊張は解けませんでした。
私はあの娘を助けてあげられなかったことを今でも後悔しています。誰かが間に入って、あの娘の気持ちに寄り添ってあげられたら、彼女はあんなに怯えずに済んだかもしれない。「見て見ぬ振りする人ばっかりじゃないんや」と知ってもらえたかもしれない。他人事といえばそれまでですが、私の自己満足でしかないとわかっていても、何か行動できたことがあったんじゃないかと思わずにはいられないんです。
「私はなんておこがましいんやろう。なにが、自分と同じ様な環境にいる人を助けたいやねん。目の前に手を差し出せる状況があったって、ただビビってただけやんけ。」
その時思いました。同じような経験した人に直接関わる仕事やボランティアはできないな、と。自信や知識の問題ではなく、怖さや辛さを身にしみてわかっているからこそ、生半可なことは出来ないと思い知ったからです。
例えばこれが、もっと悲惨な経験をしている人の手助けするとしたらどうでしょう。私は今の自分や生活を省みずその人の助けになろうと全力を注ぐと思います。でも、もし私の手助けが失敗したとしたら?私が良かれと思っていることがその人を逆に追い詰めてしまったら?それを知った瞬間、私の心は押しつぶされると思います。じゃあ諦めて、自分の悲惨な体験を無かったことにして、楽しく暮らせればそれでいいのか?それも違います。自分の経験が誰かの助けになるかも知れないと知っていて行動しないのは、バッタモン家族に綴っている家族の姿と何ら変わりのないものになってしまいます。
後日、実は例の女の子を、ウィニペグで行きつけのスターバックスで見かけたことがあります。やはり細かな状況はわかりませんが、彼女は1人で、依然としてうつむき暗い様子でした。