「なんで?」を大切に :怖い実験から考えた日常のこと
人間は残酷で怖い、と感じた。新聞で読んだ心理学の「ミルグラム実験」のことについて考えている。
実に6割の人が服従したそうだ(記事によっては、9割と書いているものもある)。
この実験は、ヒトラーがユダヤ人を大量虐殺した理由が発端。ヒトラーは裁判で「命令されてやっただけ」と言ったそうだ。権威者に命令されると、責任は自分にないと思いやすい。権威者に従ってしまうのも、偉い人が言うのだから正しいと思うのかな。
権威者の命令ひとつで、人は残酷になれる。そして、自分もその例外ではないかもしれないのが怖い。
たとえば、誰かを傷つけないと自分が殺される、もしくは大事な人が殺される。そうなったら、想像だけど、私は自分と大切な人が助かる方を選ぶ気がする。
こんな極端な話だけでなく、この構図は日常のあらゆるところで起こっているのではないか。
いじめ、政治家の不正、あらゆるハラスメントや虐待。
特に日本は上下関係を重んじる文化があり、「上の人の言う事は絶対服従」という考えもまだ、根強く残っているように思う。
権力に無条件に従うのではなく、自分の行動に責任を持つことが大事だと頭ではわかっている。けれど、周囲の雰囲気や慣習、無言のプレッシャーの中では、その決意が簡単に揺らいでしまうのではないか?
今思えば私は、実験と似たような体験をしたことがあった。
幼い頃、父親からの虐待に苦しんだ。家族の中で一番の権力者は父親だ。逆らうと殴られ、従う方が楽だった。
父親の気分で、私は友達との約束を何度もドタキャンしたことがある。電話で約束を断ることも許してもらえない。代わりに強烈な平手打ちでふっとばされ、私は部屋に閉じこめられた。ドタキャンの理由を友達に聞かれた時、「パパが遊ぶなって言ったから」と言い訳をし、友達は離れた。
私は自分の行動を「命令されただけ」と正当化し、それを理解しない友達をひどいと思った。
では極限の状態で冷静になれる人はどのくらいいるんだ?一体どうすればいいのか。
私なりの答えは、「ほんま?」「なんで?」という疑問を普段から持つことだ。
「誰かが言ったから」「そんなもん」という答えは、考えることを放棄している証拠。それでは周りに流されるだけだ。
ニュース、人の話、物語でも、ゆっくり考えられる場で「本当に従っていいのか?」「これでいいのか?」と問い続ける。いきなり判断を迫られた時には冷静になれないからこそ、日頃からの訓練が必要だと思う。
人間の残酷さは消せないし、権威者への服従という本能も真っ向から否定することもできない。だからこそ日頃から考え、「NO」と言う準備をする。そして、自分の選択が誰かを傷つけないかを、自分なりに判断し続けていくしかないのだろう。
とはいえ、本音を言えばやっぱり、支配や権力に抗うのは怖いな…。
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