東京モノレールの車窓からポンジュースの看板をみると、亡くなった父を思い出す。
私にとって怒涛の夏が終わった。
表現が正しいのかわからないのだが、ここまで長い夏は始めてだった。
父の死、移住、異動、、、、
本当に色んなことがありすぎた。2024年の夏は忘れることはないと思う。
まず2ヶ月近く
私が文章が書けなかったのは
亡くなった父が影響していると思っている。
父が亡くなったあと、父のSNSに息子として亡くなった報告をフォロワーさんや、友達に報告した。
父の葬儀は父の意向もあり、密葬だった。正直喪主としても、密葬は準備も少なく負担も少なかった。
ただ、密葬にしてしまったことで父の友人たちがちゃんと、お別れが出来なかったのではないかと
思った。父の意向としても、息子の私としては
正直、亡くなった報告をした時は心が痛かった。
父は毎日のようにfacebookを投稿していたので、亡くなる7日前あたりから投稿が無くなっており、心配する声が目立っていた。父の訃報を伝えたら、150件以上のコメントがあり
全部に返信することはできなかった。
そして、毎日投稿しているfacebookを見ていると、どんどんと知らない父をいなくなってから
知るようでなんだか虚しかった。文章って
言葉以上に本質や本音がみえてくる。
自分自身の文章が急に恥ずかしくなり、
書けなくなってしまった。
この振り返りの時間が自分を保つ時間でもあったのに、自分を保つ時間がなくなってしまった。
文章イップスになってしまったのかもしれない。
父が亡くなり、まもなく77日
この数字がキリがいいのか、縁起が良いのかわからない。でもそんだけの日程が経っていることは
まだ驚きもある。
1月から彼女と暮らしてるから、一緒に暮らしたのは去年までだったけど、一緒に暮らせてよかったなと思った。今は離れて暮らしてるから
亡くなった実感がないけど、いつか
実感するその時が来るんだと思う。
私はこの記事を新千歳空港から羽田空港へ向かう
航空機の中で書いている。本当は星野源のエッセイを読もうとしたのだが、なんだか自分の気持ちを整理したくなって、いまこうして書いている。
札幌↔︎羽田の飛行機は年に1回以上は乗っている。
中学生までは父と母と飛行機に乗っていたから
父と乗ってた記憶を思い出す。
葬儀では一切泣かなかったけど、亡くなった日
なぜか近所のスーパー『まいばすけっと』で
号泣した。
お供物のピー煎がなくて、泣いた。
父がいなくて、泣いた。
そして、私はこの後羽田空港へ到着したら
『東京モノレール』に乗ろうと思っている。
札幌から東京へ移り住んだ際に、
父が東京モノレールに乗せてくれた。
その後も札幌へ帰省したあとに、羽田空港へ着くと父は必ず東京モノレールへ乗せてくれた。
必ず先頭座席に座らせてくれた。
東京モノレールに乗ると、東京にいる実感が強く湧く。特に地下部分から地上部分にあがる羽田付近にあるポンジュースの看板をみると、
ここから東京モノレールの車窓がはじまる
ワクワクした気持ちをより思い出す。
ここから東京がはじまるんだ。ってダサいことを
当時は思ってた。東京モノレールは
僕にとって思い出の一つ。
だから、多分今日乗ったら泣いちゃうかもしれない。泣かないためにも京急で帰ろうかな笑
父と行った場所やものを見ると
思い出すと泣いてしまう。
だって場所はまだ生きてるんだから、思い出は死んでない。
父を失ってから、父のことをこんなに考えるとは思わなかった。父の死はこんなにも虚しく、切なく、悲しいものだとは思わなかった。
ただ、一つ言えること
この夏は
人生最大のターニングポイントだったと思う。