批判・評価と中傷
ある国の元宰相が殺されて、さまざまな議論が起きている。
ある人の業績について、批判を含む評価をすることと、その人の生死とは関係がない。つまり生死によって評価が変わってはならない。生死によって変わるような評価は正当な評価とは言えないだろう。
死んだ直後に「敢えて」総括的な評価(ポジティブにせよネガティブにせよ)をすることには意味がある、と自分は思う。
ただそのときにネガティブな評価「だけ」を強調していうと、ほかの人、とくに全体としてポジティブな評価をしている人には「中傷」に聞こえる可能性が高い。
それは逆もまた成立する。ポジティブな評価「だけ」を強調すれば、ほかの人には「空虚な世辞」(中傷の逆)に聞こえる。
「死者に鞭打たない」ということばがあり、基本的に自分は賛同する。
鞭には「罰する」つまり(ネガティブな)評価に応じた「負の報償」を負わせるという意味が付随するわけだが、ここに一つのポイントがあるかもしれない。
つまりネガティブな批判が問題なのではなく、そこに「罰」を持ち込むかどうかが問題なのではないか。その「罰」を正当な「正しいもの」と主張することは、正しくない。
そして逆の理屈として、よいことをしたから「正の報償」を与えることが正しいと主張することも、正しくない。
つまり、死者に(死んだことによって)鞭打ったり、(死んだことによって)報償を与えたりすることは、正当な結論になりえない、ということ。
「殺すこと/殺されること」を心情的に罰ととらえることは、許されると思う。というかどう感じようとそれは自由で、そこに蓋をすることはできない。またそういう心情を表明すること自体も問題ではないと思う。
問題の核心は、そういう心情の表明が、他の誰かの実行を後押しすることに繋がる可能性がある、ということであり、このコンピュータネットワーク時代になって、それが無視できない実効力を持つものとして発現してきた、ということなのだろう。
でもそれでも、自分は「だから心情表明をするな/控えよ」という結論に飛びつきたくないのだ。自分の感じたことの表明を「自粛」することの先にある、黒く重苦しい何かを自分は絶対に背負いたくない。たぶんそれは「表現の自由」にまつわる問題なのだろうと自分は思う。
私たちは今そういう時代にさしかかっているのだろう。嫌いな言葉だが、この時代の新しい「倫理」が求められている。
ちなみに今般の「国葬」は、「正の報償」であり、罰の裏返しの話だと思う。つまり自分はそれには反対である。
もともとは、価値中立(①②)だが現在はネガティブ(③)が強い。自分は価値中立で使うことが多いが、誤解の可能性が高く注意が必要だ。
①と②は文脈から自明。②の前半は価値中立だが後半はポジティブなことと言っている。自分は価値中立で使うことと半々だが、これも注意が必要。
これはネガティブな意味でまちがいないが、「過失」についても、嘘/フェイク(「ありもしないこと」)についても使うことできるようで、このちがいは大きな問題で、使いづらいし細心の注意がいる。
中傷の反対の語は、なんだろうか。「称揚」「賞賛」などが考えられるが、それだと「過失」や「嘘」の逆を匂わす意味が込められない。「空虚な世辞」と言ってみたが「世辞」だけでいいのだろうか。
「過失」の逆も気になる。
法律用語的には「故意」だそうだが、それでは「失敗/成功」の意味が漏れる。
(引用はすべて「小学館 精選版 日本国語大辞典」から抜萃)
220716
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