1. 思考のかたちデザイン行為を考えるうえで、基本となる考えの枠組み/思考方法をしめしたい。職業的なデザイナーなら、ふつうに、ごく自然に、そのような仕方で考えているのかもしれない。だが、この考え方そのものに直接に言及しているのは聞いたことがない。ということで、その思考方法には名前がついてない(か、単に自分は名前を知らない)。 このプラグマティックな思考方法に、自分は「〈効果思考〉」という名前を付けたいと思う。 名前とはいいものである。適切な名付
「ひょっとすると、私たちが直面している真の疑問は、『私たちは何を望みたいのか?』かもしれない。」(「サピエンス全史」ハラリの結語) 最近ChatGPT4oが発表になったばかりで、そのデモに衝撃を受けた人は多いだろう。もちろん自分もその一人だが、モヤモヤとしつつ思い出したのが上のハラリの言葉。この言葉はこの最新AIの状況を先取りしたものだったではないか。ハラリの言葉は、ChatGPT4o にグッサリと突き刺さった。 今回の 4o(omni) は、それまでバージョンが聞けば応
「生きのびるためのデザイン」(ヴィクター・パパネック 没1998) https://www.amazon.co.jp/gp/product/4794974132/ref=ppx_yo_dt_b_asin_title_o02_s00?ie=UTF8&psc=1 1974年つまり自分が大学に入った年に刊行された本で、50周年の今年2月に新版として再刊行された。題名は耳にしていたが未読だったのでこれを機に購入。 「デザインの本」は基本的には自分はほとんど読まない。自分にとって「デ
3年ほどまえ、芭蕉について読んで(*)、ああそういうことなんだ、とコネクティングドット事象があった。それは創造と表現ということに繋がることなんだが。 モノとコトについて先日書いが、改めて芭蕉の本をみると、そのままのことが書かれていて拍子抜けした。読んだことを忘れて、自分で気がついたと思っていたみたい。自分は線を引きながら本を読むタイプだが、その場所に線がまったく引かれていないので、かなりサブリミナルな話しなのかもしれない。 「思う『こと』を見聞きした『もの』に託して言葉に
モノとコトという対比構文が語られはじめたのは20年くらいまえだろうか。もっと前からだったかな。 大まかには、モノからコトへ、モノではなくコトが大切という流れの話しだった。おそらくモノを偏重する姿勢を批判する文脈で語られたのだと思うが、自分もその頃そう感じてそう主張していた。プロダクトデザインからITC関連のデザインへ進展したこととも関係があるかな(ということは、30年はゆうにたっている)。 しかし最近は「モノとコト」という形ではあまり語られなくなった気がする。といっても、
なぜデザインという仕事をしているのか。 なぜこのような文章を書いているのか。 じつはそれは自分の中ではかなりはっきりしている。 そのときどきの状況に流されたり、偶然の出会いや出来事があったりした結果として、このデザインという仕事を自分はしてきた。だが、場面場面の決断を後押しする、緩やかだが確かな、一定の力が自分の中には働いていた。「そのこと」はずっと考えてはいたような気がする。そしてかなり後に、シンプルなモチベーションに気づいた。 それは「心惹かれる」という状態のことだ
アリストテレス「ニコマコス倫理学」(山本芳久、100分で名著) アリストテレスは、つかみ所がないので避けていたけれど、この本によれば、あまりに自然であり普通の感覚/常識だ。自分が小さい頃から考えていたこと/考えてきたこと、気づいてきたことの道筋にしっかり沿っている。 それは気づいた自分がアリストテレスなみにエライ、という意味ではなく、単に自分はアリストテレスから連綿と続く思考の枠組みの中に生まれて育ったということなのだろう。もうすでに自分の身体の中に血肉化している。それほ
AIについて、いろいろと驚いたり恐れたりしているが、今の自分の感じや考えを、いちおう書いておく。あとで答え合わせをするために。 (「あと」→たぶん50年後?) この急峻に立ち上がってきたAIの波は、本物であると思う。実体としての大きな波であって、けっして幻影ではない。 かつて、マルチメディアとかハイパーメディアとか、○○革命とか、○○2.0とか、「これこそ」レベルのたくさん「ブーム」があったが、ある意味で、ほとんどが幻影だった。でも、このAIの流れは、それとはちがうと思う。
1. 「デザイン」と「設計」“design”という言葉には、「設計」と「デザイン」という意味がある。なので両方にまたがる話しをしようとすると、いちいち「いわゆる」とか、「設計とも訳される」とか断りをいれないと誤解が生じて面倒なことになる。 一つの言葉が複数の意味を持つことは、めずらしいことではない。けれどこの二つは、意味の境界をぼかし、両方の意味を互いにほのめかすような使い方が、わざと、あえて、されているような気がする。なんかこの二つのちがい触れるのは、腫れ物にさわるっぽい
第二部 農業革命第5章 農耕がもたらした繁栄と悲劇1万年前、サピエンスは狩猟採集から農耕へと生活スタイルを変えた。農耕と平行して家畜化がはじまったが、それらは要するに自分以外の動植物の生命を操作することだった。サピエンスはそれに夢中になった。今でも。 BC9000小麦の栽培ヤギの家畜化、BC8000エンドウ豆レンズ豆、BC5000オリーブ、BC4000馬、BC3500ブドウなどが栽培ないし家畜化されたが、それらはさまざまな地域で同時多発的に起こった。 農耕は定住を強いた。
「デザインは問題解決」という言い方がある。はじめて聞いたときから、個人的にはこの言い方はちょっと引っかかってモヤモヤしている。 これは捉え方によってどうとも応えられる。要は何を強調したいのか、ということなのだろう。 何を? 大きくゆるくいえば、デザインは「問題解決」であると、いえなくはない。しかしそれでは工学はどうなのか。問題解決以外の何ものでもあるまい。あるいは芸術だって、何らかの問題を解決していると説明することも、それほど奇異ではない。 ぎゃくに「問題解決」でない行
もうかなり熟読しているが、少し時間ができたのでもう一度、ユヴァル・ノア・ハラリ「サピエンス全史」読み返す。至福だなぁ。 第一部 認知革命第1章 唯一生き延びた人類種 135億年前「物理学」という物語りが始まり、38億年前「生物学」という物語りがはじまった。 7万年前、〈認知革命〉とともに歴史学がはじまった。そして1万2千年前に〈農業革命〉があり、500年前〈科学革命〉が起きた。 サピエンスは、人類のなかで唯一生き延びた種。ネコ科ヒョウ属にはヒョウもライオンもトラもいるが
理系文系、それらと哲学について前回書いた。 理系は、世界を「知る」ために分割する、その分割の決まり・法則をさぐる。文系は、分けててもまだ残っている実際に存在する個物に注目する。そのためそれぞれ、同一性、差異性の眼鏡で世界を観る。 哲学は理系文系からは独立し、両者の調停・統合によって最終的な世界図を描く。 これらの真摯な学は、すべて「知る」ことにかかわっている、ともいえる。あるいは世界をどう「わかる」かという視座である。 しかし、知ることはわれわれが為すことの一部でしかない
▪️理系文系 理系文系という分けかたは大学受験的だ。自分の時代は完全に二者択一な感じだったが、今は文理融合などといって昔ほどは乖離的ではないのは、いいことだと思う。完全に分けられなるはずも、分けていいはずもない。 でも理系文系とはそもそもどういうことなんだろう。 理系は、合理的、論理的な思考を要するに科目、数学や物理化学など。文系は、歴史や地理、文学などすでに現実にある事象が何であったかを考える科目、といったあたりが一般的だろうか。 理系は、人の心によって左右されるものは
「目的への抵抗」國分功一郎前回「目的」について書いた直後に、「目的への抵抗」を入手した。 自分はおもしろかった。視点はまったくちがうが、自分がいいたかったことと結論的には同じだととも感じた。 本書の結論: われわれの生活から目的が消え去ることはありえないが、あらゆるものが目的合理性に還元されてしまう事態に警戒すべきである。 自分が前の文章で書こうとしたことは、目的は意味はあるけど、あまり縛られない方がいいのじゃないか、という気づきだった。結論として目指していることは同じ
理由探し 人は「理由」を求める。 ある事象が起きたとき、人はそのことの理由とは何かと思考する。そのことは自然だ。理由を知ればより適切で根本的な「対処/対応」が可能になる。 何かを「知る」目的は、もちろんその事態に適切に「対処」するためであり、「適切な対処」は自らの生存に有利に働く。つまり自分(たち)が生き延びるために、ある事態を理由も含めて知ることはとても役に立つ。 時間的にいえば理由は過去に属するものだが、それを知るのは未来の事態への対処のためである、というパースペクティ