見出し画像

No.456 小黒恵子氏の対談記事-22 (童謡への招待)

 こんにちは。小黒恵子童謡記念館です。
 今回は、クォータリーかわさき No.50 に掲載された小黒恵子氏と田中星児氏の対談記事を紹介いたします。

特集 童謡への招待 ことば しらべ いのち
『子どものうたとともに』    
       対談 小黒恵子(童謡詩人) 田中星児(歌手、作曲家)

★小黒恵子童謡記念館のこと
小黒 童謡記念館のオープニングの節は、大変お世話になりました。司会と
   歌をお願いしまして、とても好評だったんです。
田中 先生の童謡記念館には二、三回おじゃましていますよね。古い蓄音機
   が幾つもあったのを覚えています。あれは昔のままのものですか。
小黒 三台あるんですが、昔あったものは戦争時代に防空壕に入れてだめに
   してしまいました。全部集め直しました。レコード盤三百枚は、日本
   全国の方からいただいたものばかりです。ですから、その方々がはる
   ばる来てくださっても、レコードが回りません、音が聞けませんじゃ
   申しわけないと思いまして、三台あれば一台ぐらいは大丈夫という安
   心できるものをそろえました。
田中 レコード針はどうされているのですか。
小黒 近くの光学機械の小さな会社で、何か他のものに使うらしいんですが
   その針と同じですので、それをまとめていただいています。
田中 あの針は十曲ぐらいもちますか。
小黒 二曲でとりかえます。盤が痛みますので。

 ―  エジソン社製の蝋管蓄音機があるんですよね。
田中 すごいですね。オルゴールもたしか。
小黒 はい。大型オルゴール三台と中型二台です。童謡記念館の一階ホール
   ではオルゴールや蓄音機の演奏を聞いていただくだけではなく、専属
   ピアニストによる童謡の生演奏やコンサートなどもおこなっていま
   す。二階には谷内六郎さんの絵や童謡の資料などを展示しておりま
   す。ここは和風になっているので、劇団「民芸」をやめて語り部にな
   った松尾敦子さんにお願いして「宮沢賢治の民話と童謡の会」をやっ
   たりしております。

★お二人の出会い

 ―  お二人の出会いをお話しいただけますか。
田中 NHKの『おかあさんといっしょ』という番組で、先生の「ドラキュラ
   のうた」や「ニャニュニョのてんきよほう」を歌った時、詩にリズム
   があって、情景も浮かんでくるし、先生の詩に曲をつけられたらうれ
   しいなあと思って、ある時、思い立ってお電話したんです。「先生の
   詩大好きなんですけど、曲をつけさせていただけないでしょうか」っ
   て。そういうことならと、先生が詩を送ってくださったわけです。そ
   れが先生との出会いですね。
   昭和六三年に初めて「おじいちゃんていいな」という曲がNHKの『み
   んなの歌』になって実現しました。
小黒 「おじいちゃんていいな」。あのうたは反響が大きかったですね。そ
   れから「大きなリンゴの木の下で」「ジャガイモジャガー」「エトは
   メリーゴーランド」「大名ぎょうれつ」などですね。

★小黒さんの詩には動物がいっぱい

田中 先生と五曲も作らしていただいて。ほかにレコードになっていないで
   すけど、「くものモクちゃん」「神父さんの帽子」とかいろいろ。先
   生の詩にはかならず動物とか虫が出てくるんですよね。
小黒 そうですね。田舎育ちで、それが原因じゃないかしら。わたしの育っ
   た頃のこのあたりは、ほんとうに見わたすかぎり緑一色で、小川がた
   くさん流れていました。稲作が盛んでしたので、灌漑用の水路がずい
   ぶんあった。そこに、フナとかどじょうとかアメンボやミズスマシな
   ど色々な魚や虫がいたんです。魚釣りしたり、犬をつれて多摩川まで
   散歩したり、夏は泳いだりとか。それが自然に心の中に焼きついてい
   て、多摩川の水のつめたさ、あたたかさがしみこんでますので、何か
   書くときにどこかで顔をだしてくるんですね。きょうだいがいなかっ
   たものですから、動物とか昆虫とかほんとうに身近な生きものたちと
   友だちって感じだったんです。自然の中で育った大地の子だったんで
   す。

 ―  先生は川崎で生まれ育ち、そこでずっと暮らしておいでなんです
   ね。いまのお話をうかがっていると、そんな当時の川崎は想像できな
   いですね。

小黒 ええ。白鷺も飛んできたり、とてものどかな田園風景でした。

★童謡を書くきっかけ

田中 小黒先生が童謡を書かれるようになったきっかけは何だったんでしょ
   うか。
小黒 童謡を書くきっかけは、谷内六郎さんなんです。『週刊新潮』の表紙
   の原画をよく見せてくださって、何か批評して下さいっておっしゃい
   ました。それでわたしは見せていただいた絵のイメージを詩にしたん
   です。それが童謡を書くきっかけでした。『週刊新潮』は昭和三一年
   二月の創刊号からお描きになって、わたしは谷内さんの絵の世界と純
   粋な心の世界に魅了されまして、とても尊敬していました。谷内さん
   との出会いは、わたしにとって大変な幸運でした。

 ―  法学部を出られたそうですが。
小黒 弁護士になろうと思って入ったんですけど、みんな学校の研究室に泊
   まりこんで勉強々々の先輩の人たちを見ててこれは駄目だと思いまし
   た。急に情熱が覚めてしまいましてね。さりとて女性の職種は限られ
   ていましたけれど。
   考えてみると、人生の道って最初から何々になろうって自分の適性を
   探せる今の時代は幸運だと思います。私の青春時代は戦中戦後でした
   から、紆余曲折のかぎりをつくして、何になるか考えてもどうしよう
   もない時代だったんですよね。

 ―  NHKで最初のお仕事は何ですか。
小黒 一番最初が「ドラキュラのうた」でした。川崎市は蚊がとても多かっ
   たので、カガサキ市なんていわれてヤブッ蚊ばっかり。夏は苦労した
   んですよね。それでヤブッ蚊ドラキュラのうたができたのです。
田中 クニ河内さんの作曲と歌でしたね。すごいインパクトがあってよく覚
   えています。四〇年代ですね。

戦後派の田中さん

 ―  田中さんは戦後派ですが、小学校の音楽の時間の印象は?
田中 ぼくねー、音楽の時間て好きじゃなかった。子どもの頃は声が高かっ
   たんですよね。女みたいだって言われてましてね。父が高校の音楽の
   教師してたもんですから、いやだったですね。中学で声がわりしたら
   低くなりました。
   子どものころはベッタン(関西ではメンコのことをさす)をやりなが
   ら「お富さん」というのを歌ってた覚えがあります。夕方なんか広沢
   虎三の浪曲が聞こえてきたり、ラジオ中心の時代でしたね。

 ―  ポピュラーソングとの出会いというと。
田中 小学校の六年、もうテレビですがエド・サリバンショーに出てたミッ
   チミラー合唱団っていうのがすごい好きで、見てたような気がしま
   す。当時ラジオで深夜放送が始まって、コニー・フランシス、ポー
   ル・アンカとかが流れ、姉がレコード買ってきたり、一緒に聴いたり
   してました。当時はみんな楽譜見てギターやりましたよね。
   ぼく学生時代、のど自慢ばっかりでてたんです。フルバンドで歌える
   のですっごい気持ちよくてうまくいけば賞品もらえるっていうんで、
   二〇何回やりましたものね。四三年にNHKののど自慢のポピュラーの
   部で優勝したんです。
   ひょんなことで、『ステージ101』(NHK)という番組のバックコー
   ラスを一年やって、ソロを歌いたいなあと思っていた頃、『おかあさ
   んといっしょ』のオーディションに運よく受かって、初代の「うたの
   おにいさん」になったわけです。昭和四六年です。オーディションの
   課題曲は「さっちゃん」でした。デビュー曲は「ヤンチャリカ」で、
   小林亜星さんと阿久悠さんに作っていただきました。パンチのある歌
   でしたねー。

 ―  そのあと「ビューティフルサンデー」の大ヒットがあるんですね。
田中 『おはよう720』(TBS)という人気番組のなかの海外取材レポートの
   コーナーで、ユーゴスラビア(旧)にギターをもって行ってみません
   かということだったんです。番組の途中からテーマソングが「ビュー
   ティフルサンデー」になったんです。ドイツかどこかでこのうたがす
   ごくはやってたらしくて、スタッフがホテルで朝眠くてもこれを聴く
   と起きれるんですって。それでテーマソングになった。
   ぼくはユーゴで「オー・マリヤーナ」といううたとめぐりあい、これ
   をA面に、「ビューティフル」の方をB面にしてレコードを出したわ
   けです。これが、昭和五一年です。

★みんなが掛け合いで歌いたいうたを

田中 『ステージ101』は当時アメリカで大人気のヤング・アメリカンズを
   モデルにしたくらいでしたから、ポピュラーなうたばっかりでした。
   ですから、「子どものうた」を歌うなんてぜんぜん思ってなくて。た
   だぼくが「うたのおにいさん」になったときは、ラッキーだったんで
   すよね。童謡というよりも「子どものうた」というふうに変わってき
   て、わりと自由な詩ができてきた頃で、プレスリー的なフィーリング
   を入れても異和感がなかったんです。「さっちゃん」も「チビッコカ
   ウボーイ」もギターで気楽にうたえる時代に入ってたんですね。

 ―  「子どものうた」っていうと小学校の低学年までですか。
田中 小学校二年ぐらいまでですね。戦前の小学唱歌は高学年まで対象に入
   っていたんでしょうね。
小黒 子どもたちはいま、リズム感のある歌でないと喜ばないし、ついてこ
   ないというふうに変わってきましたね。
田中 テレビでコンニチワーというと、見てる子どもが一緒にコンニチワー
   といってるんですよね。友だちになってるんです。テレビで育った子
   どもにとって歌は、「聞いて」「見て」「からだを動かす」ものにな
   っているんだろうなと思うんです。
   ただ一方、うたのある遊びをしなくなっていますよね。マリつきとか
   ゴム飛びなんていう。

 ― たくさんの子どもさんにじかにふれて歌ってらっしゃると、そういう
   ことはやはり切実に感じられますか。

田中 地方で歌うとき、ぼくのことはほとんど知らないわけですよ。元気な
   うたやったり、静かなうたやったり、たとえば「北風小僧の寒太郎」
   「おもちゃのチャチャチャ」「アイアイ」とか、すごく楽しそうな反
   応が返ってくると、うれしいですね。
   それでぼくは、もう一曲先生と作りたいと思うのは、みんなで掛け合
   いで歌えるうたを作っていただきたいなあと思うんです。
小黒 いいですねー。ぜひ実現させたいですね。
田中 口はばたい言い方かもしれませんが、つくづくいまぼくは、新しい創
   作方法を子どもたちのなかから発見してかなきゃいけないと思うんで
   すよね。たとえば子どもとコミュニケーションとるうた、「おもちゃ
   のチャチャチャ」というと「チャチャチャ」と参加する、気持ちが交
   流するうたがもしかしたら、残っていくのかなあと思ったり。それは
   子どもたちが、ほんとにふだんの生活感情に共感して歌えるうたかど
   うか、密着したことばと動きがでてくるような歌かどうかという。
小黒 田中さんはステージなどで子どもの反響がじかに伝わってくる現場の
   強味がありますね。日常の生活の中で、おかあさんと子どもがいっし
   ょに歌えるうた、何気なく口ずさめるうたを作りたいものですね。
田中 ただ一方で、子どもにじっくりと聞かせるうたがあっていいですよ
   ね。ほんとは母親の声で子どもに歌って伝えてほしいと思うのです
   が。ぼくは自分のコンサートではよく「蛙の笛」を歌うんです。「月
   夜の田圃でコロロコロロ・・・・」って。
   今は小学校の音楽唱歌も言葉が今風に直されていってしまうんですよ
   ね。わたしは、言葉のことは大きくなって理解する部分があってもい
   いと思うんですけれど。

★うたを通して、子どもに伝えたいこと

 ― こういう時代に新しい童謡詩を書いていかれるというときに、子ども
   たちにこのことは伝えたいということは何でしょうか。

小黒 身近な自然とか昆虫や動物などいろんなものに対する関心をもっても
   らいたいですね。この地球に生きているもの、形はそれぞれ違って
   も、みんな友だちなんだと言う、やさしさと愛の心を童謡を通して伝
   えたいですね。そして「ありがとう」と言う感謝の言葉を伝えたいの
   です。子どもは大人を模倣しますから、大人がマナーを守り、子ども
   に自然なかたちで伝えていけたらいいなあと思っているんです。それ
   で例えば「ごみごみおばけ」(NHK『おかあさんといっしょ』)とい
   う歌を作ったんです。「公園でお花をちぎって捨てたのだれ? 道路
   にチューインガム捨てたのだれ? 絵本やぶいて捨てたのだれ? そ
   んなことすると夜中にごみごみおばけがソロッテでてくるゾゾゾゾ
   ー」といううたを作ってみたり、やはりうたの中で伝えていかなけれ
   ばいけないっていう、うたづくりの者としての義務じゃないかと思っ
   てますね。それで楽しみながらうたづくりをする、そしたら子どもた
   ちもやっぱり楽しいと思うんです。
田中 いつも先生の詩を読ましていただいて思うのは、詩だけ読んでも楽し
   いんです。リズムがあって覚えやすい。読んで読みやすいのは、すご
   く曲がつけやすいんですね。詩の力だなあと思います。
小黒 やなせたかしさんは、「てのひらに太陽を」の作者ですけれど、よく
   〇歳~九九歳の人の歌を創るのが理想だと言っていらした。
田中 うんとヒットしたうた、ほんとうに面白いうたというのは年代を超え
   て歌われるんでしょうね。

★川崎のうた

 ― 川崎を題材にしたうたもつくっていらっしゃいますね。
小黒 「草笛のうた」という題名で、五曲の組曲を作りました。サブタイト
   ルが「ふるさとは多摩川」です。昭和五九年に鮭の稚魚三〇万尾を放
   流したのですが、鮭たちのふるさととわたしのふるさと両方の母なる
   川としての意味合いがあります。二子玉川で放流の式典を行なったん
   ですが、ものすごいふぶきの日でした。そのふぶきの中でクラウン少
   女合唱団の団員たち七〇名が歌ってくれました。また「ふるさと多摩
   川」は昭和六四年の正月に市民ミュージアムで、川崎市立久末小学校
   の生徒さん一七〇人が歌いTVKで放送されました。

★花とライオン児童合唱音楽賞

 ― 「花とライオン児童合唱音楽賞」という賞を昨年の夏に創られました
   ね。

小黒 花は美しく、ライオンは強い代表ですので、子どもに美しくやさし
   く、そしてたくましく成長してほしいという願いをこめてユニークで
   たのしいネーミングにいたしました。童謡記念館とは全く別の組織
   で、「公益信託小黒恵子児童合唱音楽振興基金」というかたちで作り
   ました。写真家の秋山庄太郎さんと、元上野動物園園長の浅倉繁春さ
   ん、作曲家の高木東六さん、他の学識経験者七名を運営委員にお願い
   しています。少年少女合唱団というのは非常にじみな活動をしていま
   す。正確にはわかりませんが、全国で連盟に所属しているだけで二〇
   〇近く、所属していないところをあわせると五〇〇団体以上もあるん
   です。創立五十周年というところもあるんですよ。
   入団した小さい子が、先輩のみんなと一緒に楽しく立派に歌えるよう
   になるとやがて卒団していく。それを何十年と重ねてるんですね。月
   謝が一人一五〇〇円~二〇〇〇円ぐらいなんです。なかなかできる仕
   事ではありませんよね。
   先生たちのこの情熱的な息の長い仕事は、情操教育と音楽の土壌を下
   支えするとても重要な仕事なのです。そういう団体を対象にスポット
   をあてたいと思いました。そしてこの賞が末永く希望の星となる存在
   でありたいのです。
   そしても一つ大事なことは、子どもたちにたのしい歌を次の世代に引
   き継いでいって欲しいのです。

 ― 楽しいお話しをありがとうございました。

++++++++++++++++++++++++++++++++++
小黒恵子 おぐろけいこ
川崎市高津区生まれ、在住。日本童謡協会理事。(財)川崎市文化財団理事。川崎市公園緑地審議会委員。日本作詩大賞・童謡賞、日本童謡賞、赤い靴児童文化大賞などを受賞。詩曲集『うたのパレット』『ライオンの子守唄』『飛べしま馬』『草笛のうた』『白馬の海』『みなとヨコハマ若いカモメたち』。童謡集『シツレイシマス』『ホラ耳をすまして』『モンキーパズル』。詩集『ユトリロの絵の中で』『エメラルドの約束』などがある。
++++++++++++++++++++++++++++++++++
田中星児 たなかせいじ
奈良県生まれ。歌手、作曲家。星のきれいな夜だったので「星児」と名付けられた。1970(昭和45)年に「ステージ101」でデビュー、翌年にNHK「おかあさんといっしょ」の初代「うたのおにいさん」となる。1976年「ビューティフルサンデー」が大ヒット、その年のNHK「紅白歌合戦」に出場。NHK「みんなのうた」で「おじいちゃんていいな」「大きなリンゴの木の下で」「ねぇ、知っているかい」「ジャガイモ・ジャガー」などを中山竜のペンネームで作曲。現在は子どもから大人まで楽しめるコンサートや曲作りに励んでいる。

クォータリーかわさき No.50 平成9年(1997年)2月発行

 最後までお読みいただき、ありがとうございました。
 次回も、1997(平成9)年の雑誌に掲載された小黒恵子氏のエッセイや記事をご紹介します。(S)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?