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うつ病患者が観た<君たちはどう生きるか> 『我を學ぶ者は死す』の示す意味とは?

公開前の事前情報は、謎の鳥が描かれた1枚のビジュアル。

そして、タイトルのみ。

君たちはどう生きるか

僅か数ヶ月前まで。
激しい希死念慮に襲われ
『死にたい』
『死ぬしかない』
『私は生きていてはいけない人間だ』
そんな思考に捉われ続けていた私にとっては、ほぼ唯一の情報である<君たちはどう生きるか>というタイトルだけ・・・・・・で「観たくない」「自分には到底観れる内容じゃないだろう」と敬遠していた。

しかし昨日。
私はその作品を観に行くことにした。

私はどう生きるのか

そんな自問自答の渦に飲み込まれた半年を、なんとか生き抜いてきたうつ病患者が観た、宮﨑駿監督最新作<君たちはどう生きるか>


すでに多くの考察や感想がネット上にアップされているが…。
それらに書かれていることにはあまり囚われることなく。

死ぬはずだった私が感じた物語の謎に対する自分なりの解釈を、書き留めます。



※以下、作品のネタバレを含みます。未見の方はご注意ください※





あらすじ

舞台は戦時中の日本。
東京に住む少年・眞人は、空襲による火災で入院中の母を亡くした1年後、父と共に母の田舎先へと疎開した。

そこで眞人を待っていたのは、父親の再婚相手であり、実の母の妹である夏子だった。
夏子はすでに、父との間に新しい子を宿していた。

眞人は新しい環境や現実に順応することはできず、軍国主義に染まった学校でもいじめに遭う。

眞人はやり場のない想いを、自身の頭部に石をぶつけ怪我を負うことで父からの愛や心配を得ようとするが、満たされない気持ちはそのままだった。

眞人の前には、疎開当日からアオサギが現れていた。
アオサギは「助けて」と実の母の声を使い、眞人を屋敷の裏にある"石の塔"に誘おうとする。

その"石の塔"は眞人の大叔父にあたる人物が築き、引き込まれた者は神隠しに遭うという謂れのある建造物であり、屋敷の者たちからは近づくことを禁じられていた。

不気味なアオサギと戦うため、眞人は弓矢を自作する。
その最中に、生前の母が大きくなった自分へと遺した1冊の本<君たちはどう生きるか>と出会う。
本を読み涙した眞人は、行方不明になっていた懐妊中の夏子を追い、老いた女中・キリコと共に石の塔へと向かう。

石の塔の内部へとアオサギに導かれた眞人は、母と対面する。
しかしながらその母は偽物であり、眞人の目の前で溶けて消えていく。

石の塔の主人である人物によって、眞人は"下の世界"へと誘われていった。
下の世界に広がるのは、広大な海。そして陸があった。

眞人は、母を救おうと。
そして夏子を取り戻そうと。

"下の世界"での冒険と成長の旅を始めるーー。




『我を學ぶ者は死す』の示す意味とは?

この作品の中ではっきりと"明文化"されているメッセージは3つ。

・眞人の母が遺した『大きくなった眞人へ 母より』
・本のタイトル『君たちはどう生きるか』

そして"下の世界"で眞人が最初に降り立った陸地に建てられた墓の門に刻まれた『ワレヲ學ブモノハ死ス

私は、物語全編を通して多くの謎が残る今作の中でも、特にこの言葉について考えさせられた。

巨石をストーンヘンジのように組み上げただけのシンプルな墓石に似遣わない、黄金に輝く門にその言葉は刻まれていた。

ワレとは、何を指すのか

多くの考察において、このワレとは
・下の世界の創造主である大叔父
・宮﨑駿本人
であるとの推察がなされているのを目にした。

しかし私には、それとは別の想いが浮かんでいた。


ワレとは。
そのままの意味で"自分自身"のこと。
殊更に"自分自身の中の悪意・・"なのではないか。

そのように感じられて仕方なかった。


我を學ぶ者は死す。
自分自身の中に棲まう"悪意"と向き合い続けると、死ぬ

これは数ヶ月前の私に、見事に当てはまることだ。

今まではそのような"悪意"が自分に巣食っていることにも気づかず、自分の深淵と真剣に向き合うこともなかったが、ある日を境に、私は"自分自身"や"自分自身の中の悪意"と向き合い続けることになった。

数ヶ月に及ぶ自問自答の末。

私が導き出した答えは
『死のう』
『死ぬしかない』
『生きる価値はない』
それだけだった。

自分自身というモノを知ろうとすればするほど、導き出される答えは"死"であった。
一択、だった。


あの墓は、すべての人間たちが無意識の中に持つ"悪意"の合葬の地なのではないだろうか。

墓の主とはすなわち、すべての人間たち
無意識下に眠らせてある"悪意"に衝撃が走る(=眞人のような侵入者が現れる)ことは、悪意を眠らせ安定を保っているすべての人間たちの"悪意"を呼び覚ますことになる。

仮に"下の世界"が生命の生前かつ死後の世界であるとするならばーー。
墓に眠らされている"悪意"が呼び覚まされるとどうなるのかは、想像に容易い。

"悪意"が解き放たれるのだ。

人間の持つ悪意が、100あるとしたら。
生まれてくる前に、あの墓に50を眠らせているのだろう。
時に90の人もいれば、10の人もいるだろう。

しかしあの墓が"下の世界"にあることで人間は"悪意のすべて"を持って生まれてくることはない

そうしてこの世界は、惨めながらもなんとか均衡を保っている。

もし墓に異常が生じ、悪意が解き放たれたなら、全ての人間は"ワレ"を知ることとなり自己の破滅に向かい、ひいては世界の混沌、もしくはその終焉を迎えることになる。

墓に眠らされている"悪意"はその原動力たり得るものであるのだ。


あの墓を築いたのは、下の世界の創造主である大叔父であろう。
大叔父は、現実世界に落ちてきた石の塔の力に導かれて、あの世界に入った。
周囲からは「読書のし過ぎで頭がおかしくなった」かのようにも言われている。

大叔父はおそらく、自己の悪意と向き合ったのだろう。
本を読むことを通じて、なのか。
はたまた別の理由があったから、なのか。
それは分からないが、おそらく激しい自分自身との対峙があったはずだ。


だからこそ大叔父は"悪意"を眠らせる墓を建て、祀り、生命が生まれ還ってくる世界を築いた。
さらに自らの旅の中で探し出した"悪意のない石"を積むことで、世界の安定を図った。
そして自らの血を引く眞人を、その世界の後継ぎにしようと目論んだ。

眞人は自身の悪意と向き合い、そしてそれを受容できる人間であると見抜いたからであろう。


しかし眞人は自らの"悪意"を認識しているが故に、大叔父の誘いを断り、現実世界へと戻ることを決断する。

友達をつくる

そうすることで、悪意を潜ませた自分と共に生きることを選んだ


我(=自らの悪意)を学んだ上で、死ではなく、自分自身として生きることを選んだ眞人。

決して幸福だけに満ちたわけではない現実を受け入れ、その中で自分にできる「友達をつくる」ことで生きていく。

その眞人の決断に自分自身の希望を重ねてしまったのが、うつ病患者である私だ。

彼は強く、立派であると思う。


過去は変えられないが、未来は変えられる

たとえこの旅を眞人自身いずれ忘れゆくものだとしても、これからの眞人は、過去やあらがいようのない現実に囚われ続けるのではなく。
はっきりとした理由は分からないままにも、希望を胸に前を向いて歩み続けていくのだろう。

あの奇妙な大冒険は眞人にとって"自身の悪意"と、心に残った"清純さ"への気づきを得る、重要な旅となったはずだ。




神という存在は、無慈悲であり、慈愛に満ちている。
そんな相反した存在のように感じる日々だ。

それは我々人間が、時に応じて都合よく"神の存在"を願ってしまっているからだと思う。

偶然・・かのように思えることも必然・・の中に組み込まれていて、それは時折"運命"や"奇跡"として表現される。


人間の生と死。
悪意と清純。

それらが描かれた本作の主題が<君たちはどう生きるか>となったのもまた、必然なのだろう。




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荻野うみ | うつ病ビギナー
「noteで稼ぎたい!」そんな想いで書き綴っているのでは決して無いのですが…。 なんせ無収入の現実です。。。 もしお気持ち・お心添えを頂けることがあるのなら、めっちゃ嬉しいです! 治療に向けての日々のため、大切に使わせて頂きます。

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