巨椋池の蓮見船 その1
巨椋池
巨椋池(おぐらいけ)のことをご存知だろうか。
高速道路の第二京阪に「巨椋池」というインターチェンジがあって、名前の割に池は見当たらないのを不思議に思ったことがあった。それが自分が巨椋池のことに興味を持ち始めたきっかけだったと思う。
巨椋池は京都市の南にあった。池というか、湖といってもおかしくないくらいの大きさだ。
Wikipediaによると、
「干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。」
とある。数字で見ても大きさが想像出来ないので、「近代京都オーバーレイマップ」の大正元年の地図を見てみよう。
中央色の濃い部分がかつての巨椋池で、向島から宇治と久御山の一部は水底だったことがわかる。
もし巨椋池が京都中心部にあったとしたら、
南北は七条から三条まで、東西は東大路から西大路あたりまで。
かなり大きい。これくらいの水面がかつて京都南部に広がっていたということを頭に置いて、この記事の残りを読み進めてほしいと思う。
干拓の前と後
この大きな池は今はない。干拓されてしまったのだ。
巨椋池は、水害という面では厄介な存在であり、漁業の面では恩恵もあった。農民と漁民、漁民同士の利権の争いも度々起きていたようだ。
そのあたりのことは
巨椋池 (宇治市歴史資料館/編集)
に詳しく書かれている。興味があればぜひ読んで見て欲しい。
巨椋池での漁にまつわる話。往時の京都の名物の一つに「うなぎ」が挙げられたという。うなぎだけではなく、巨椋池産の淡水魚が京都洛中でも食べられていただろうから、京料理も現在とは少し違っていたのかも知れない。今でも何か記録やレシピが残っているものか興味を惹かれるところだ。
ともあれ、巨椋池がマラリア蚊の発生原因になっていたことと、食糧増産を理由に、この広大な水面は干拓によって消えてしまった。
国営第一号の干拓事業で、1933年に始まり1941年に完了したということだ。
今では広大な水田が広がり、高速道路が通っている。
上の写真の、左手奥に見える山が岩清水八幡宮のある男山。
立て続けに3枚の写真を上げた。1枚目ー2枚目ー3枚目が右ー中ー左、と続いていて、これらの写真の平坦な土地のほとんどが水面だったのだろう。
こういった水路がいくつかあり、どこからか滲み出てくる、巨椋池を作っただろう水を今でも掻き出している。
※カラー写真は全て本日(2020年8月26日)撮影してきたもの。
蓮見船
巨椋池は漁場でもあったのだが、古くから遊興の場でもあったらしい。船を浮かべ和歌を詠むといったこともあったようだ。
近代でも、船を浮かべて蓮を見るというので、
いつ頃の写真かはわからないが、こんな風に遊んでいたんですね。
上の写真、女性が差している傘から撮影年代の推測は出来ないものだろうか。
それにしても広い。見渡す限りの蓮池。
まるで巨椋池と運命をともにするように消えてしまったこれらの船に惹かれる。
どんな設計の船なのか。どこかに手がかりが残されているのではないか。
この、蓮見船を手がかりに、見渡す限り蓮に覆われた巨椋池を想像することもできるのではないかと思っている。
ところで、蓮の種は今でも休眠状態で土中に埋まっており、今でも花を咲かせるということだ。干拓後、牛馬で耕していた時代はそんなことはなかったらしい。機械の強さとスピードで、蓮の種が傷つけられることで目を覚ますとのこと。これは久御山町の公民館で、巨椋池の歴史をよく知るおじいさんから聞いた話。
「巨椋池の蓮見船 その2」に続く。次回は船のことを中心に書く予定。
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この記事は
*新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金
を受けた調査報告の一環として執筆しています。
モノクロの写真3点は「宇治市歴史資料館」より提供いただきました。