公式に発表されたのでここでも個人的に思ったことを書き記す。 和船作りに携わる実践者という立場で、意見を聞かせてほしいということで、2024年2月と4月に上の記事の発掘現場に招いて頂いた。 こちらとしては願ったり叶ったりで、実物を目にして心底感動した。 この遺跡から出土したものは、船そのものというよりは、廃棄船の部材を再利用した護岸の土留めということのようだ。そういうものであるから、完全な船の形で出土したのではない。とは言っても、どの程度の大きさか、またどのような構造の船か
「立誠高瀬舟」完成記念のトークイベントおよび乗船会が、高瀬川沿いで開催されました。トークには、都市と水辺について研究される松田法子さんをお招きしました。 立誠高瀬舟づくりの話を入り口に、水域+船という水の大動脈が古くから大都市・京都を支えたことを確認しました。また、淀川水系で使われた3種類の船についてや、それらとも異なる特徴をもつ京都北部で使われた船について紹介しました。その中で、淀川の舟運で使われた船が、古い刳り(くり)船の特徴をうけついだ可能性を推察しました。終盤には参
3月25日朝、立誠高瀬川保勝会により、立誠高瀬舟の進水式が執り行われました。 例年よりも桜の開花が進む中、地元有志の新洗組のみなさんにより、手際よく舟は高瀬川へと下されました。 厳かな式に続き、舟が水に下されると和やかな雰囲気が広がりました。 4月1日と2日は実際に乗船いただけます。 詳細は以下の通り。予約は不要です。 また、4月2日には京都府立大学准教授の松田法子さんと京都の船と船にまつわる環境についてにお話いたします。 いずれも「第37回高瀬川桜まつり」(主催=立
京都立誠高瀬川保勝会からの依頼で、新しい船を作っています。「新造船」であるということと、「新設計」という二つの意味で新しい船です。 京都の物流を支えた高瀬舟を参考に、立誠高瀬川保勝会のみなさんのご要望を反映させた設計です。 高瀬舟と比較すると全体的に1/2よりやや大きい舟で、構造は高瀬舟に倣っています。 この記事を書いている11/26日時点で8〜9割の完成ですが、野外の作業で日も短くなってきており、あれやこれや細かな作業もあり12/10くらいまでは制作が続く見込みです。
古い船底を再利用したテーブルとある仕事で京都市内中心部の老舗にお邪魔した際、置かれている大きなテーブルが古い和船の船底を再利用したものであることに気づいた。 それが誉田屋源兵衛で、京都市室町で創業285年を誇る老舗の帯商だ。 誉田屋源兵衛→https://kondayagenbei.jp/ ちょうど京都市内で新しく和船を作る話が進んでおり、細かな部分の造作が新しく手がける船の参考になるかも知れない。或いは、そのテーブルが京都の高瀬舟や琵琶湖の丸子船から再利用されたものなら
トモブトの実測図 今年の1月に京都府立丹後郷土資料館に収蔵されているトモブトという船を実測した。実測をもとに実測図を描いていたのだが、急に忙しくなったりして作図作業は断続的になっていた。 このほど完成したので公開したい。 トモブトの概要については以前の記事も読んでいただきたい。 実測図 実際の図面は1/10縮尺で作成しているが、noteの仕様もあるので図面のキャプチャー画面を掲載している。 トモブトのあれこれ 船首の「バン」と呼ばれる部材裏に墨書きがあった。 「昭
Coyoteという雑誌の取材を受けたので、これを機会に前から考えていたことをここにまとめておこうと思う。 船を湯船にする 今回取材を受けたのは、2021年3月15日発売の 「Coyote No.73 特集 自然と遊ぶ、サウナのある暮らし」 お題は、和船とサウナで何か考えられないかということだった。和船をサウナにすることはそれほど真面目に考えたことはないけれど、船は水の上に浮かべるものだし、サウナには水が必要なので言われてみると色々できそうだと思う。 「湯船」という船は
トモブトの実測調査 2021年明けて、トモブトという船を実測することが出来た。 2017年に丹後で開催された「ART CAMP TANGO 音のある芸術祭」に参加し、この時自分は美術作品の展示と、それから但馬地方から丹後にかけて日常的に使われていた「丸子船」という船を復刻したのだった。 そのリサーチの時に見て以来、トモブトがとても気になっていた。 トモブトと丸子船はなんとなく似ているところがあるように思っている。大きさはトモブトの方が一回り大きい。トモブトを小型にして、船
和船を作るのには電動工具から手工具まで色々使う。 大工さんが使う道具と大差ないが、特徴のあるものもいくつかある。 この記事はそういった道具の紹介。 珍しい道具①アイバズリノコ 漢字で書くと「合い刃摺り鋸」だと思う。 船は水が漏れないというのが大事。しかし、数枚の板を剥ぎ合わせて幅広い板を作ったり、曲げた板と板を接合するなど、隙間が出来ないほうが不思議なくらいだ。 この鋸は、そんな突き合わせ面の隙間をなくす為に使う。 片刃の鼻丸鋸なのだが、縦挽きの刃が付いてるのがポイ
久御山町中央公民館に展示されている漁船と、宇治市歴史資料館収蔵の蓮見船の写真をもとに「巨椋池の蓮見船」をたどる試み。 宇治市歴史資料館の写真から新たに設計する 宇治市歴史資料館所蔵の写真を注意深く見てみる。 赤い破線が船梁(ふなばり)。これらの船梁の間に乗れる人数を想像してみた。 黄色の破線が人。前にもう一人、後ろは一人か無理してさらにもう一人乗れそうである。 船の幅は、後ろの船梁上の船頭の足から推測すると、足の長さの4倍くらいはあるのではないか。 女性が正座した際の
「巨椋池の蓮見船 その2」に引き続き、本稿では久御山町中央公民館に展示されている「巨椋池の漁船」の考察をさらに進め、この船の出自と、どのような経緯でこうした構造をとることになったかを自分なりに考えてみたい。 構造の特徴「巨椋池の漁船」の構造では、以下の点が目を引く。 ①二枚水押+剣先船 ②ハタ(舷側板)が一枚ではなく下部で継がれている ③トダテが一枚ではない ↑各部材の名称 ハタと水押の接合部 ①の特徴については「歴史と民俗 32号 特集 和船」 の、織野英史氏による
このところ取り組んでいる、京都から大阪に至る淀川水系の和船の調査は、もともとは巨椋池(おぐらいけ)の蓮見船がどのような船だったのかを明らかにしたいという興味から出発した。 「高瀬船」「淀川三十石船」「くらわんか船」などはよく知られ、文学や芸能、あるいは地域の歴史を語るものとして様々に親しまれていると思う。 一方、「巨椋池の蓮見船」はそれほど注意を払われていないように感じるが、自分にとっては謎めいた存在として惹きつけられる。 巨椋池が干拓によって消えてしまったように、そこで使
巨椋池 巨椋池(おぐらいけ)のことをご存知だろうか。 高速道路の第二京阪に「巨椋池」というインターチェンジがあって、名前の割に池は見当たらないのを不思議に思ったことがあった。それが自分が巨椋池のことに興味を持ち始めたきっかけだったと思う。 巨椋池は京都市の南にあった。池というか、湖といってもおかしくないくらいの大きさだ。 Wikipediaによると、 「干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖であった。」
三十石舟の実測 京都伏見桃山の旅館、「桃山温泉月見館」には三十石船がある。 かつては宇治川に舟を浮かべ、宿泊客を乗せ、宿泊客をもてなしていたとのことで、今回実測したのはそういった船だ。 実測することで淀川水系にまつわる舟への理解が深まるかもしれないし、知られざるエピソードを掘り起こせるかも知れない。どうであれ、木造和船は失われる一方で、記録は手の届く限り尽くさなければならない。 写真 写真上:シキ(船底)とハタ(舷側)を接合する釘の間隔は18cm程度。釘の長さは125
ここ数日、京都の高瀬舟の図面を書いている。造船の予定はないが、この船について知識を蓄え、図面を用意し、いつでも作れるように準備はしておきたい。 高瀬川 高瀬舟は京都高瀬川で使われた物資輸送用の舟である。森鴎外の小説の題名にもなっているし、実際に話の舞台は京都だ。高瀬川というのは北は二条と三条の間くらいから、南は宇治川まで、鴨川の西側を流れている浅くて小さな川。高瀬川の水は鴨川から引かれている。木屋町の川といえばピンと来る人も多いだろう。 この高瀬川という名前だけど、「高瀬舟
三十石船の造船記録映像 2020年7月25日、 「ふるさとミュージアム山城 ー京都府立山城郷土資料館ー」で、横手洋二さんから京都周辺の往年の和船にまつわるお話を伺った。この記事はその記録というか、覚書。 同資料館の1991年の第9号の館報で、「伏見の船大工」という報告をこの横手さんが書いておられて、かなり興味深いのだ。 当日、横手さんには京都周辺のかつての舟運についてあれやこれやとお話を伺ったのだが、核心部は伏見の最後の船大工である野崎志郎さんの船作りについて。1991年