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淀川三十石船その1

三十石船の造船記録映像


2020年7月25日、 「ふるさとミュージアム山城 ー京都府立山城郷土資料館ー」で、横手洋二さんから京都周辺の往年の和船にまつわるお話を伺った。この記事はその記録というか、覚書。

同資料館の1991年の第9号の館報で、「伏見の船大工」という報告をこの横手さんが書いておられて、かなり興味深いのだ。

当日、横手さんには京都周辺のかつての舟運についてあれやこれやとお話を伺ったのだが、核心部は伏見の最後の船大工である野崎志郎さんの船作りについて。1991年に三十石船を再現された。当時80歳。もう亡くなられている。
野崎家は古くから続いた伏見の船大工の家系。

その三十石船の造船記録をVHSビデオで見せていただいたのだ。
映像の中の野崎さんはまるで鎌倉期の僧の彫刻のような体つきである。腰は曲がっているが、引き締まった皮膚がまだまだ力強そうな筋肉に張り付いている。ガンガン釘を打ち込んだり、ザリザリ鋸を通したりしている。その姿には衝撃を受けた。まず自分が80歳の時に(そもそも生きているかという問題もあるが)あれくらい働けるか全然自信がない。

ここで淀川三十石船について確認しておこう。
淀川三十石船とは、高槻市のウェブサイト、インターネット歴史館によると、

全長:11~15m
全幅:1.8~2.1m
旅客定員28人

大阪の八軒家と京都の伏見を行き来し、大阪を朝に出航し、京都に夕方に到着、また京都を夕方に出て大阪には翌日早朝到着という運行スケジュール。
上方落語のネタ、「三十石夢乃通路」でも有名ですね。下りは枚方で停泊して、早朝に八軒家に着くよう時間調整していたらしい。こういった事情は今のフェリーと同じで、どうせ行動できない眠っている時間を使って大阪に到着というのが売りだったようだ。船頭は4人。これは一隻の船の運行スケジュールで、船の数は最盛期には1日で320便運行していたという。これは「レファレンス協働データベース」の管理番号NDL-伏見中央‐3による。

11~15m
という全長は自分の感覚ではかなり大きい。


木造和船の作り方

ところで、自分がこれまで作った船は、作業小屋に「シキ」と呼ばれる船底をジャッキで固定し、「ツカセ」と呼ぶつっかえ棒で舷材押さえ、曲げつけていくのだが、野崎さんは「シキ」は何本かの台木に乗せ、接合面の隙間をなくす作業も、二枚の板の両側に舟釘を打ち寄せている。
舷材の押さえつけも、台木に打った舟釘を押さえとしてツカセをかけている。

相刃摺り001

ツカセ002

見知らぬ方法である。思いつかなかった。船の制作に櫓(ヤグラ=作業小屋)が必要ないというのは自由度が高い。大きな船であれば櫓(ヤグラ=作業小屋)もそれにつれて大きくしなければならないとなると、なかなか厄介である。
また、両側のハタにロープを輪にして掛け、それを棒で引きしぼることでハタを曲げるということもしていた。これは前述の 「ふるさとミュージアム山城 ー京都府立山城郷土資料館ー」館報に詳しい。

下の写真はツカセの林みたいになっている作業場。富山県氷見市の船大工、番匠光昭さんに弟子入りし、氷見型のテント船を作った時の様子。
こうなると、ツカセを跨いだりくぐったりで、作業場を行き来するだけで大変になるのだ。

スクリーンショット 2020-07-29 18.25.43


それから、組み立ての順番も自分が慣れ親しんだものと違っていた。
自分がこれまでやったのは、
A
1. 船底+船首+船尾を組み付け、
2. 舷材を組み付ける
野崎さんは、
B
1. 船底+舷材を組み付ける
2. 船首と船尾を組み付ける

軽くたじろいだが、制作に際して船体を固定することを回避するなら、なんとなくこれは合理的なように思う。
と、今ここで書いたそばから、自分がこれまでに取っていた工法、舷材を後から組み付ける段取り(A)でも、船の構造によってはひょっとしたら櫓なしで出来るのかも知れない。
どちらかと言えばこの問題は一枚棚か二枚棚かという所にあるのだろう。下棚を曲げるためには上から押さなければならないから、どうしても天井か梁が欲しい。

工程003

というわけで、三十石船の制作記録映像から、自分なりに大きな発見と制作のイメージが得られたのだけど、肝心の構造については謎が残った。


船首=水押しの構造

どういうことかというと、船首=水押しの形状で、映像の中で野崎さんが作っている三十石船の船首は板状だったのだ。ビデオを見ていて、どちらが船尾で船首かわからなかったくらい。下の写真の右側が水押し(船首)のはずだ。

画像6


この記事の見出し画像は「和漢船用集」の三十石船の図。この絵図では船首は尖っている。しかも、、

スクリーンショット 2020-07-29 18.38.02

継ぎ目が描いてある。
古い絵図と軽視は出来ない。人間はないものをわざわざ描いたりしないと思うがみなさんどう思いますか。
しかも、

画像7

上の写真は山城の国(京都)でスタンダードと言える二枚水押しの船の模型の水押しを下から撮影した写真。
で、

スクリーンショット 2020-07-29 18.48.51

赤丸、別の材で切り返している。舷材は船首に向けて継いでいる。
これは、和漢船用集に描かれている三十石船を思い起こさせる。

そこに持ってきて、野崎さんによる三十石船の模型がある。これは京都周辺あちこちで所蔵されているのだが、この船首は一本水押しなのだ。

水押004

淀川三十石船の真の姿が見えなくなって来た。

船というのは基本的には道具なので、使いにくいものは好まれない筈だ。つまり、使う環境と使い途によって設計は定まっていく。それに加えて、製作者の得手不得手、というか、どういう制作方法を継承したかとかが設計を左右するだろう。

まあ、三種類の構造の船が、どれも十分な性能を発揮し、制作費や手間が大差ないのなら、三種類の構造の、同じ名前の船が存在していても不自然とは言えない。しかし気分的には「淀川三十石船 決定版」というものを突き止めたい。

困ったな。三十石船を作る予定はないけれど、この調査は作る目線で進めているのでこの状況は気持ちが悪い。自分が作るとしたらどれを採用するべきか。

ここで、「和漢船用集」の三十石船について見直して見る。が、構造については触れていない。記述されているのはどのような働きをする船かということだ。

ここに来て慰めてくれるのは、前述、高槻市のウェブサイト、インターネット歴史館の三十石船の全長についての記述である。

全長:11~15m

4mの差。これは大きい。
定員が決まっていたのだから、居住空間の大きさはあまり変えられなかったのではないか。船首の構造が、三種から選べるのであれば、4mはそのバリエーションを叶えるのに十分だ。

そうこうするうちにこんな写真を見つけた。

船首の構造がうっすら見える。一本水押しではないようだ。野崎さんの再現した板状の水押しのようでもあるが、角度が違う。

ここで三十石船の歴史を再度「レファレンス協働データベース」の管理番号NDL-伏見中央‐3を確認。
最盛期で1日に320便。一隻が2便を担うとして160隻の三十石船が淀川に浮かんでいたことになる。これは最盛期の数だから平均で200便/日としてみよう。運行年数は300年とする。一隻の耐用年数を30年(実際にはこれより短いと思う)と考えて見る。

ということは、淀川航路の三十石船の300年間の総建造数は1000隻

すごい数だ。さすがは日本最大の経済都市と首都を結ぶ航路を行き来しただけある。

なにしろ300年だもの。造船に使える木材も細くなったりして、設計変更も余儀なくされたこともあっただろう。一人の船大工のひらめきや、他の地域から異なる造船方法が持ち込まれることもあったかも知れない。そもそも、荒れる海原の波を切って進む船ではないし、喫水も浅そうだし。それなら船首の形状は割と自由ということだったのかも知れないなあ、というのを現時点でのひとまずの結論としよう。


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出典など

見出し画像:『和漢舩用集 12巻』(京都大学附属図書館所蔵)を改変
和漢舩用集 12巻について
簡単に説明すると、江戸時代に書かれた日本と中国の船の辞典。
あちこちの図書館のデジタルアーカイブで閲覧できます。

和漢舩用集は読めない日本語の「くずし文字」で書かれていますが、解読は「くずし文字ビューア」が助けてくれます。

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この記事は
*新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金
を受けた調査報告の一環として執筆しています。




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