巨椋池の蓮見船 その2
このところ取り組んでいる、京都から大阪に至る淀川水系の和船の調査は、もともとは巨椋池(おぐらいけ)の蓮見船がどのような船だったのかを明らかにしたいという興味から出発した。
「高瀬船」「淀川三十石船」「くらわんか船」などはよく知られ、文学や芸能、あるいは地域の歴史を語るものとして様々に親しまれていると思う。
一方、「巨椋池の蓮見船」はそれほど注意を払われていないように感じるが、自分にとっては謎めいた存在として惹きつけられる。
巨椋池が干拓によって消えてしまったように、そこで使われていた船も姿を消したことを思うと、まるで水と一緒に蒸発して、霧散して姿を消したような想像をしてしまう。「巨椋池の蓮見船」は確かにたくさん浮かんでいたし、写真も残っているのに今では誰もそれがどんなものだったのかよくわかっていない。「淀川三十石船」「くらわんか船」よりはずっと近年まで使われていたにもかかわらずだ。資料が少ないのも、この船の姿を明らかに出来ない原因の一つだと思うが、この船が当時あまりにもありふれた存在で、記録を残すまでの価値が認められなかったということもあるのかもしれない。
実際のところ、そもそも船というの道具であり、壊れるまで使われ、船としての機能を失えば今度は分解されて板塀や薪など、とにかく徹底的に再利用されたようである。極端な例として、富山県の氷見市博物館に展示されている丸木舟の一部は、井戸枠として使われていたという。
ともあれ、こうした事情から、木造和船の「現物」は、作られた数に比べて極端に少ない。大変な財産だったはずの弁財船(北前船として有名)でさえも残っていない。場所もとるので保管場所の確保も大変だが、文化財や民俗資料としての価値を考えると、日本全国でもわずかしか残されていないのが口惜しい。
今、自分が取り組んでいるこの淀川水系の木造和船の調査は、現物を残せないまでも、せめて記録を残しておこうと考えているからだ。
巨椋池の漁船 概観
これほど魅了されている「巨椋池の蓮見船」だが、その面影を残すと思われる船が、久御山町中央公民館に展示されている。
久御山町に許可を得て、2020年8月18日にその船を実測することができた。
以下、「巨椋池の漁船」の写真。
下のテキストは上写真後ろの解説パネルを書き出したもの。
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漁船
巨椋池は万葉集を初めとして往古より詩歌文芸に現れまた蓮の名所として名高く、多くの文人僕客の足を池に運ばせたという。一方豊かな水禽魚族の繁茂は沿岸生活の資となり、あるいは狩猟の地として狩猟家を楽しませた。
この周囲16km、水域面積794haを有する巨椋池の豊富な魚群を追って活躍した漁船は、明治・大正期東一口(ひがしいもあらい:筆者注)に於いて300叟を数え、常時150叟が出漁していたといわれる。また漁労以外の採藻運搬などにも利用され、日常生活に欠くことの出来ない貴重な存在でもあった。
巨椋池の水位は、平均2m弱と極めて浅くその上、藻・蓮・真菰をはじめとする153種にのぼる水性植物が繁茂していたため普通、船は1人乗りで吃水を極度に浅くし、肩幅が長さに比べて短く扁平型をしている点が特徴としてあげられる。この漁船も昭和8年、巨椋池干拓に伴い大半のものはその運命を巨椋池と共にし、わずかなものが淀川筋や残留水面に於いて副業的漁業に活用されていた。しかし昭和30年頃より水質の汚濁が急激に進み魚介類が食用に適さなくなり、全くその用途を断たれてしまった。
今回、展示のこの漁船は東一口の鵜ノ口彦三郎氏より巨椋池懐古の資料としてご寄贈いただいたものである。
昭和52年11月1日
久御山町郷土史会
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東一口地区だけで300叟あったと書いてある。一体何人船大工がいたのかと思う数だ。はたして現在、東一口にそれほどの軽トラックがあるものだろうか?(突飛に思われるかもしれないが、往時における小型和船は、使い途から現在の軽トラックみたいなものと思って差し支えないと思う)
実測図面
続いて図面。これは実測に基づいて私が描き起こした。実際の制作を念頭に置いて作った図面なので、釘の間隔のような細部は省略している。
上段から平面を半分にしたもの、中段は断面の半分、下段は立面。
全長は約5m、全幅が1mあまり、高さは中央部で30cmを切る。
特徴と細部について
見ての通り、細くて高さが抑えられ、いかにも波のない静かな内水面の船という印象。豪華さや雄壮さはないけど可憐な感じもあり、質素で鄙びた雰囲気で、私はこういう船はかなり好み。改めて触れたいが、「古い」船の面影も残しているようでもある。
特に注目してもらいたい点を写真を見ながら説明してみよう。
水押し(船首)
まず大事なのは二枚水押であるということ。
それから、二枚水押でも特に、船首部分が独立した構造であるいう点。
和船でよくあるのは「一本水押」で、下の絵が一本水押の船。船首部分、左右の板が先端中央の柱に接合されている。
それから、タテイタ水押というのもある。高瀬舟はこの構造で、一本水押が板になった構造。
これも面白い。この船は船首にも櫓床があり、方向転換せずに櫓を船尾から船首に乗せ替えて船尾に向かって漕ぐことがあったということが推測できる。能登半島の西岸にはこういった船があり、船尾の方が広くて海中を覗くのに具合が良く、艪を船首に置いておくことで船尾を広くして使ったということだ。波が高くなった場合は船尾に艪を置き、速度を出して急ぎ漕ぎ帰る。
ハタ(舷側)
ハタ(舷側)が上下二枚で出来ている。この意図はあれこれ考えているのだが未だにまとまらない。幅の広いハタが必要な場合に、数枚の板を接ぎ合わせることは良くある。しかし、この船の側板は接ぎ合わせる程でもない(幅は30cmを切る)。ハタの下部は少し厚みを持たせているのが秘密を解くカギのような気がするが、接合面を増やすのは船全般において得策ではない。浸水の可能性が増えてしまう。
トダテ(船尾)
このようなトダテ(船尾)も見たことがない。三つの部材で構成されていて、ハタ(舷側)に接合されている。2の板の幅を単純に広げ、ハタに接合するのでも良さそうなものだが、そうはなっていない。
因みに接合は全て舟釘など金物のみで、接着材の痕跡は見られない。止水材も同様で、接合箇所にはマキハダ(ヒノキの皮の柔らかい繊維部分から作られた止水材。木造和船の止水に使われる)も見られないが、単純に抜けただけかも知れない。
あと、蓮見船の写真からは、巨椋池の船の推進は艪ではなく竿を使っていたと思っていたが、艪漕ぎの船でしかも前後両方に艪床を備えているのはとても興味深い。
因みに、和船に見られる艪はオールやパドルとは異なる仕組みで推進力を得る。東アジアに分布しているということだが、どのような途をたどり伝播したものか。
以上、今まで見てきた他の船と比べてもかなり面白い構造の船だと思う。和船の作り手としての目線で、特に注意を引く特徴ある部分を写真中に書き込んだ。
この船はあくまでも「巨椋池の漁船」であって、蓮見船ではない。
もう少しこの漁船についての考察を進め、「蓮見船」へとたどり着きたい。この漁船についてもまだ語りつくしていないので、さらに「巨椋池の蓮見船 その3」に続く。
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この記事は
*新型コロナウイルス感染症の影響に伴う京都市文化芸術活動緊急奨励金
を受けた調査報告の一環として執筆しています。
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