書籍【暇と退屈の倫理学】読了
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◎タイトル:暇と退屈の倫理学
◎著者:國分功一郎
◎出版社:新潮文庫
さすが深い!哲学にはほとんど触れてこなかったが、「考える」ことがどういうことかを改めて気付かされた。
逆説的ではあるが「思考停止している人」は、自分が思考停止していることに気が付くことが出来ない。
これは当然であるが、「自分は物事をきちんと考えているだろうか?それとも考えていないだろうか?」と自身に問いかける時点で思考しているからだ。
つまり「思考停止している人」は、その時点で、自身に問いかけることすらしていない。
日常生活を送っていると、考えることを放棄している自分がいることに気が付いてしまった。
これは恐ろしいことだ。
考えて生きているつもりでいたが、それこそが幻想。
本書を読むと分かるが、「考えること」とは、「ここまで深く考える」ということなのだ。
これからはAIの時代だ。
ほとんどの答えはAIが示してくれる。
おそらく「暇と退屈の違いは何か?」とAIに問いかければ、それなりの答えを用意してくれるのだろう。
果たしてそれでよいのだろうか?
AIの答えを鵜呑みにしているだけでは、それは自分の考えが無いことになる。
対話の壁打ち相手としてAIを使うのはよいと思うが、自分できちんと考えられなくなるのは、人間としての思考力が低下していることではないか。
たとえAIの回答にヒントをもらっても、考えることを止めたらいけない。
せっかくの人間の優位性である「思考」を使っていないことになってしまう。
だからこそ、深く考えていくことを意識する必要がある。
本書の論理展開は見事としか言いようがない。
「暇」とは何か?
「退屈」とは何か?
普段意識すらしない、これらの問いの帰結がどうなるのか興味を持ったが、実は壮大なミステリー小説のような物語性を感じてしまった。
それだけストーリー展開が見事。
時間的にやることがなく「暇」な時に「退屈する」のは理解できる。
しかし人間は、やることがあって「暇ではない」状態に関わらず「退屈している」状態がある。
これは普段働いているサラリーマンのほとんどがこういう状態かもしれない。
毎日忙しく満員電車に乗って会社に向かう。
使われることがない資料を、一生懸命に作ったりしている。
上司の思いつきに振り回され、部下のわがままに振り回される。
会社ではいつも忙しく、バタバタしている。
そして、ふと考える。
「オレの人生ってこれでいいのだっけ?」
彼は決して暇ではない。
しかし、彼はそんな日々の生活に退屈している。
そしてさらに第3の退屈も存在しているという。
「なんとなく退屈」という状態。
ここから、「時間」という概念の話に展開していく。
科学的には相対性理論によって、時間と空間の関係が解き明かされた訳だが、逆に言えば、時間とはあくまでも主観だというのが本書の説。(様々な引用をして説明してくれている)
その人にしか感じられていない「環世界」という概念は、空間の認識だけに留まらない。
時間の概念も、あくまでもその人だけのもので、客観的にどうとか、宇宙の法則としてどうとか、そういうことは関係がない。
ダニの話やミツバチの話は個人的には衝撃的だった。
ダニの話とは、子孫をどう残すかと、餌をどう摂取するかの、生存に関する話である。
本書によれば、
「先に生殖しておく
→木の上に登り、獲物を待つ
→動物の発する臭いがする
→飛び降りる
→飛び降りた場所の温度が約37度の場合
→吸血する
→受精する」ということらしい。
最初の動物の発する臭いが起きなければ、延々と木の上で冬眠のように固まって待ち続けるのだ。
相手が哺乳類だからとか、何かとか理由がある訳ではない。
目も見えないダニにとって、飛び降りるトリガーになるのは、単なる「臭い」だけだ。
そして、飛び降りた場所が間違っていたら、また木に登り獲物を延々と待つのだという。
つまり、メカニズムとして、システムとして、こういう行動を取っているだけ、というのである。
ダニは本能のままずっと獲物を待ち続け、餌を摂取しないまま18年間も生きた例があったという。
見えている世界がダニと人間とでは違う、という話でもない。
ダニはダニの世界があり、それ以外は存在していないに等しい、というのだ。
ここでなるほどと唸ったが、改めて人間という存在を客観的に見直した時に、人間として、自分としての「環世界」とは何だろうかと考えてしまった。
人間として普通に暮らしていると、「一続きの連続した自分」として認識してしまうが、それも実は変な話だ。
たとえば、夜に眠っていれば、そこに意識はない。
時間の感覚もない。
もちろん眠っていれば空間だって認識しない。
夢くらいは見るかもしれないが、そもそも覚醒した意識がないのだから「一続きの連続した自分」とは言えないだろう。
人間はたまたま1日24時間の周期の中で、8時間程度を睡眠に費やしているが、他の動物にとっては1日が24時間だろうがなんだろうが関係がない。
たとえば、カタツムリから見れば、人間が異様に早く動いているように見えるかもしれないが、1時間という時間感覚が人間とカタツムリが同じなのか違うのかは、カタツムリにとってはどうでもいい話だ。
人間はこの「環世界」を行き来できる器用さがある。
他の動物では、犬なども環世界の行き来が出来るというが、相当な訓練が必要となるようだ。
そこは人間の豊かな想像力のお陰なのか、特別な訓練無しに乗り越えていける。
だから「退屈」が生じるのだという。
特に現代の人間は行動を制限されていない。
つまり自由だからこそ、「退屈」なのである。
時間という概念を知っていて、空間の広さも認識できている。
見たことがなくても、地球が太陽の周りを回っていることも、月が地球の周りを回っていることも知っている。
1日が24時間であり、朝が来ればまた日々が繰り返されることを知っている。
ダニもミツバチもカタツムリも、そんなことはどうでもいい。
彼らは退屈さすら感じない。
餌を摂取できずに18年間生き続けたダニも、決して退屈さを感じていない。
行動を制限されていない現代人にとって、実は「退屈な時間がある」というのは素晴らしいことではないだろうか。
もちろん、退屈さを感じずに、時間を忘れて熱中していることがあれば、その方がいい。
人生の時間は限られている。
暇と退屈の正体を理解できれば、その対処の仕方が分かりそうだ。
退屈を感じたら、その状態を観察して、有意義な時間に切り替えればいい。
考えることは山ほどある。
そういう風に生きていこうと思う。
(2024/7/28日)