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【目印を見つけるノート】179. ラファエロとマルガリータのラブストーリィ
きょうは前置きなしで、16世紀のある「恋人たち」について書きましょう。
ラファエロ・サンティとマルガリータ・ルティのお話です。
絵画の画像を安易に引っ張ることができませんので、サイトのリンク、YouTubeを引いてきます。ご面倒かと思いますが、ぜひクリックしてみてください。短めの動画を選んでいます。
また、英語やイタリア語の解説がついていますが、聞き飛ばしても大丈夫です。私も分かりません😵
⚫ふたりの出会い
ラファエロ・サンティは16世紀に活躍した画家で、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ・ブオナローティと並ぶルネッサンスの巨匠です。『アテナイの学堂』などバチカンを彩るフレスコ画や多くの聖母子像を目にしたことのある方もいるのではないでしょうか。
代表作『アテナイの学堂』のごくごく短い紹介です。
1483年、ウルビーノの宮廷画家の子として生まれたラファエロは早くから絵の才能を現し、ウルビーノからフィレンツェ、ローマに移っていく中で、聖母子像をはじめ聖画や神話をモチーフにたくさんの作品を生み出しました。
さて、その画業をすべて解説するのはまた改めていつか。彼の愛したひとりの女性のことを書きましょう。マルガリータ・ルティです。
私がラファエロの「思い」を感じたのは聖母の顔でした。初期の頃、彼の描く聖母は伏し目がちで物静かな雰囲気でした。
例えば『カルデリーノの聖母』。解説によれば、この聖母の描きかたはレオナルド・ダ・ダヴィンチに影響を受けているようです。ああ、そういえば!イタリア語聞き取れたかな😅
さて、
マルガリータ・ルティはフィレンツェにそこそこ近い、シエナのパン屋の娘でした。ラファエロは1502年頃から1508年までフィレンツェを拠点に活動していたようですので、その間に知り合ったのだと思います。
ただ、この時点で二人が恋人だったかは分かりません。ラファエロは今でいう草食系男子寄りの美青年、羽振りもよかったので、いろいろ女性関係もありました。
このフィレンツェ時代にマルガリータを描いた絵は残っていないようです。でも、ラファエロにとっては決定的な恋だったことが、後で分かります。
いずれにしても、
ラファエロは1508年から教皇ユリウス2世の招きを受けてローマに定住します。そしてさきに挙げた『アテナイの学堂』をはじめ、バチカンに今も残る数々の作品を創ることとなります。
一方、マルガリータ・ルティはシエナにとどまり、結婚したと思われます。パン屋の看板娘でしたからね。
⚫聖母の顔に彼女の面影が
二人のストーリーはここでは終わりませんでした。
ラファエロはローマで、以前とは異なる聖母を描くようになります。目をぱっちりと開いて、若く優しい女性を。
例えば、『シストの聖母』(1513~14年)
もうひとつ、『小椅子の聖母』(1513~14)という有名な絵をWikipediaから。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%A4%85%E5%AD%90%E3%81%AE%E8%81%96%E6%AF%8D
彼の描く聖母はマルガリータの姿になっていきました。それは1516年に描いた『ヴェールの女』という絵から伺い知ることができます。
この絵はマルガリータの名を冠していません。ではどうしてマルガリータだと分かったかというと……それはまた後で。
ただ、聖母像がこの女性のような若く優しい印象になったことはお分かりいただけるかと思います。
どうしてラファエロはシエナのパン屋にいる人妻の絵を描いたのでしょう。聖母までその顔にしたのでしょう。
それは、やっぱり、忘れられなかったんだろうなと。シンプルに。
それにしても、いない人を正確に描くなんて、ラファエロはただ者ではないですね。顔は自分が昔描いたデッサンと記憶をもとにして、身体や衣装の質感は別のモデルのものだったかもしれません。
⚫ドルチェ・ヴィータ(甘い生活)
「会いたい、一目でもいいから彼女に会いたい」
ラファエロの中でその気持ちはどんどんふくらんで、もうどうすることもできなくなりました。
ちょうどその頃、ラファエロはパトロンでもある銀行家アゴスティーノ・キージ邸の装飾に取りかかっていました。今日、『ヴィッラ・ファルネジーナ』として残っている建物です。
そのいくつかはすでに完成していましたが、『アモールとプシケのロッジャ』と呼ばれる広間の装飾の作業が止まってしまったのです。この動画ですと中盤の天井画ですね。
ラファエロは仕事も手に付かなくなり、キージに、「マルガリータに会いたい」と懇願します。
キージは太っ腹でした。シエナの有力者でもあった彼は、マルガリータの一家を説得してパン屋ごとローマに引っ張ってきたのです。すごいですね。
ここで二人はようやく再会して、もう離れませんでした。キージ邸の仕事の間じゅう、マルガリータはラファエロに付き添っていたと伝えられています。ここは、二人が結ばれた場所でもあるのですね。
そして無事に作業を終えることができました。1518年のことです。
おそらく、この時点でマルガリータは夫と別れていたのでしょう。でも、うまくいくことばかりではありません。ラファエロはこの時すでに婚約者がいたのです。彼を引き立てていた枢機卿の姪でした。むげに婚約を破棄することもできず、マルガリータは「愛人」と呼ばれることになります。
そして、二人の「甘い生活」は長く続きませんでした。
ラファエロは体調を崩していました。結婚することのないまま、1520年4月6日、ラファエロは亡くなりました。
それは彼の37回目の誕生日でした。
マルガリータは愛人でしたので、いっさい公的な場に出ることなく、修道院に入って、ほどなくして亡くなったと伝えられています。
⚫ラ・フォルナリーナに見る愛の証し
ラファエロに呼ばれて以降、マルガリータはローマの人々に『ラ・フォルナリーナ』(パン屋の娘)と呼ばれるようになります。決して好意的な表現ではなかったでしょう。
ラファエロが明らかにマルゲリータを描いた絵があります。それが、『ラ・フォルナリーナ』と呼ばれている絵です。
この1枚の絵はラファエロにとってマルガリータがどのような存在だったかを雄弁に語っています。
布は軽くかけているものの、上半身が裸であること。ラファエロは肖像画で裸体を描くことはありませんでした。この女性が特別な存在だから、そうしたのでしょう。
左上腕の腕輪。この腕輪には『ウルビーノのラファエロ』と記されています。この女性は自分と結ばれているのだという証です。
髪留め。この髪留めはさきに挙げた『ヴェールの女』の女性が着けているものと同じです。つまり、『ヴェールの女』もマルガリータがモデルであると示唆しているのです。
後年の研究調査で、この2つの絵は骨格が同一で同じモデルだということが明らかになっています。
この2つの絵の女性は、一見同じには見えません。『ラ・フォルナリーナ』は年齢を重ねているからでしょう。『ヴェールの女』がシエナで出会った頃のマルガリータだとすれば、10年以上経っています。
でも、ラファエロにとってそれは大したことではなかったのかもしれません。
恋い焦がれ続けた女性の生身の姿と愛情こそ、ラファエロが最も欲しいものだったように思います。
あと、彼女を愛人という立場に置かざるを得なかったので、愛の証しを絵で残したのかもしれません。
「ラファエロは女性関係で放蕩が過ぎて病気になった」という説が一般的になっているようです。病気が正確に何だったかということはもう分かりませんが、それは当時の噂にすぎないかもしれません。
出典はヴァザーリの『芸術家列伝』かと思われますが、ヴァザーリはラファエロが亡くなったとき8歳で、ローマではなくアレッツォ、もしくはフィレンツェにいました。かなり後年(1550年刊行)、評伝を書くにあたって、語り継がれていることをそのまま採用した可能性もあります。
二人が愛し合っていた、ということだけは間違いがないと思います。
⚫実は今年は
実は今年はラファエロの没後500年にあたります。
そしてラファエロについての絵本が出ているのをご存じですか。
ひとつnoteをご紹介して、記事を終わります。
ルネサンスの巨匠ラファエロ没後500年によせて―。イタリアの画家ランドマンのメッセージとともに、伝記絵本『ラファエロ 天使に愛された画家』をあらためて読む。
西村書店
おがたさわ
(尾方佐羽)
#2020年秋の美術・芸術
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