暗黒報道IFストーリー62 第7章 最終決戦■犯罪サイコパス接近
■「記憶喪失ではない」。大神は主張した
大神由希は深い眠りから目を覚ました。薄暗い部屋のベットの上だった。身体を動かそうと思ったら全身に傷みが走った。じっとしていることにした。
記憶が鮮明になってきた。そうだ、昨日は選挙戦の最終日だった。カブトンに乗って最後の決起集会に繰り出した。悔いを残したくない。ただ、それだけだった。10分ほど観衆に向かって話した後のことは覚えていない。
気付いたら入院している病院だった。担当の医師にさんざん叱られた。
「傷が悪化して取り返しのつかないことになったらどうするんだ。後悔しても遅いんだぞ」と言われた。診察の結果、内臓がぱっくりと割れてしまっていた。24時間以内の緊急手術が必要だと言われ、世界的権威の専門医のいる病院に救急車で移動した。明日の午後3時から手術が始まると言われた。
今何時だろう。ベッド脇の時計を見た。日付は変わり、午前3時になっていた。ということは、手術は12時間後ということになる。
中途半端な時間に目が覚めてしまった。いろいろなことが頭に浮かんでは消えた。だんだん頭が冴えてきた。
ともかくも選挙戦は終わったのだ。長く辛い闘いだった。常に緊張が強いられ、精神的にも肉体的にも明らかに限界を超えていた。
これでよかったのだろうか。政治の経験がないのに、例え推されたからといって、軍事独裁を目指す最高権力と短期間で闘うのにふさわしい候補者だったのだろうか。
そもそもなぜ「立候補します」とか言ってしまったのだろう。多分に勢いで言った感じがする。
下河原のやり方が許せなかった。それはあった。北海道へのミサイル攻撃、日本海での「北方独国」との衝突。姑息な手段で民意を操ろうとした。
自分自身への怒り、あせりもあった。「虹」に匿われ、護衛を付けてもらいながら、変装して取材する。なにをこそこそしているんだ。「逃げている」と言われても仕方がなかった。
立候補表明して2カ月。選挙運動を通して、政治家になるために懸命に動いた。いろいろな場所で、あらゆる世代から意見や質問を受けた。戦争と平和の問題以外でも、「若者による老人襲撃、殺害が急増している。対策をとれ」「AIによる人殺し事件が発生した。規制をするべきだ」「年金基金の破綻が相次いた。福祉の将来像を示せ」「地球の温暖化、環境の破壊でこのままでは地球は死滅する。早急の対策を示して世界をリードしろ」。すべての問題について明確な方針をその場ではっきりと示さなければならなかった。
きちんと自分の言葉で伝えようと選挙期間中、必死で学んだ。知人の専門家に聞いたり、書物を読んだり、ネットで調べたり。深夜に及び、寝る間もなかった。
そうした経験を積んだ中で、政治家として最も重要だと思った資質は、日本、そして世界の5年後、10年後の将来を見通す力だった。そこからさかのぼって今できることを考え、実行する。見通した世界が将来の姿に近ければ近いほど先見性のあるいい政治家といえるのだろう。
将来の姿をきちんと見通して、有権者に示すことができただろうか。
そして、最も重要なことに気付いた。
当選することだ。立候補したからには、どんなことをしてでも勝たなければならない。負けたらすべてがゼロ、いやマイナスになってしまう。
残念ながら、今回の選挙では敗北を喫するだろう。百戦錬磨の下河原を支持する固定層は強固だった。軍事独裁を目指す下河原が例え非合法なことをしたと糾弾されても、支持者は「国のため、国民のためにやってくれていることだ」「侵略者には武力での抵抗が必要だ。防衛に力を入れることは当然だ」「攻撃こそ最大の防御。軟弱なことを言う連中を一掃して欲しい」と揺らがなかった。
理論武装をして、固い岩盤を崩していこうとしたが十分ではなかったように思う。
眠くなってきた。強い薬が体中を駆け回っているのだろう。
ふと、ドアが開く音がかすかに聞こえた。目を開けて首を少し動かしてドアの方を見た。身体はやはり動かすと激痛が走った。
ドアがゆっくりと開き、薄明かりの中で人の姿が現れた。医者か看護師か。
目を凝らした。男のようだ。
後藤田武士。
そこに立っていたのは犯罪サイコパスだった。
これは夢だろうか。夢ならば早く覚めて欲しい。
いや、夢ではなかった。今になって恐ろしいことを思い出した。
転院先の病院の名前を昨日医師から聞いたが、その時は痛み止めの麻酔が効いて頭がボ―としていたのか、ピントこなかった。今はっきりした。その病院は、後藤田が長期入院している有名な病院だった。
後藤田は部屋の中に入り、ドアを閉めた。
大神は看護師を呼ぶボタンに手を伸ばしたが届かなかった。
後藤田が近づいてきた。2メートルほどのところで立ち止まった。
「お前は誰だ」と低い声で言った。「何をしている」と続けて言った。
表情はまったくなかった。遠くを見つめているような感じだった。
やはり記憶喪失なのだろうか。それではなぜ、大神のいるこの部屋に入って来たのか。天敵である大神由希にトドメを差すために来たとしか思えない。
「殺される」。大神は恐怖で何も言えなかった。
その瞬間、ふと、変なことを考えた。
自分がここで死ぬことで、この世の中の損失はどんなものだろう。わずかであっても数字で追いかけてみよう。20点ぐらいかな。後藤田が逮捕されて、世の中はどれぐらいよくなるだろう。完璧すぎる悪が消滅するとして、30点としよう。その差は10点だ。私が殺されて後藤田が殺人容疑で逮捕されれば、そちらの方がわずかでも世の中はよくなるという計算になる。
めちゃくちゃな計算だが、覚悟は決まった。後藤田が記憶喪失ではないことが証明されて、その姿が防犯カメラで撮影されて逮捕される。その方が世の中のためにはいいのだ。たとえ自分の命を失ってでも。
幸いにもベッド脇の防犯カメラのスイッチには手が届いたので押すことができた。普段はプライバシーに配慮してスイッチはOFFになっている。天井角に取り付けられたカメラの下に小さな赤いランプが灯った。作動したことを示している。これで以後、この部屋で起きたことはすべて記録されることになる。
後藤田は相変わらず、「お前はだれだ」を繰り返しながら、部屋の中を見回した。防犯カメラを確認したように見えた。
その後、ゆっくりと後ろに向きを変えた。そしてドアに向かって歩き始めた。大神からは遠ざかっていく。防犯カメラが作動していることを示す点滅を見て、凶行を断念したのかもしれない。
このまま後藤田が部屋から出て行けば何も起こらない。「助かる」と思った。
しかし、もう一人の自分が声を発していた。
「セイラ」。ありったけの声を絞り出したつもりだが、おなかに力がはいらず、大声にはならなかった。だが、後藤田には聞こえたはずだ。ドアの扉に手をかけた動きがピタリと止まった。
「セイラに関わるのはやめて。お願いだから、あの子を悪の道に引きずり込むのだけはやめて。セイラは私が守り抜きます。それが嫌なら今ここで私を殺して」
後藤田が振り返った。
なんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。怒りなのか、戸惑いなのか、悲しみなのか。
「違う。記憶喪失ではない。セイラへの感情が顔に湧き出ている。後藤田武士は記憶喪失を装っているだけだ」。大神は確信した。
後藤田は再び近づいてきた。今度は動きが早かった。
今度こそ殺される。覚悟して目をつぶった。後藤田の手が伸びてくるのがわかった。
「ギ―」とドアが開いた。
「なにをしているのですか」。女性の看護師長の声が聞こえた。医師と警察官が続いた。
後藤田の体が瞬間、硬直したように突っ立った状態になった。再び表情が消えて元の遠くを見ている顔に戻った。
「また、徘徊して。どこにもいないので、びっくりした。病院中を探したのよ。もう」。看護師長は後藤田を𠮟りつけた。ベットで横たわる大神を見て「本当に申し訳ありません。記憶喪失の患者なんです。ぶらっと部屋を出ると戻ってこれなくなる。十分注意をしているんですけど」と言った。
「今回の徘徊と病室への侵入は重大事案として報告書を作成します」。医師も大神に謝った。
「なにかこの男は言いましたか」。若い警察官が言った。部屋を警備しているはずだったが、深夜、うとうとしてしまったようだ。
「『お前はだれだ』『何をしている』と言っていました」。そして続けた。「この男は記憶喪失なんかではありません。私の言葉に反応して怒りの表情を浮かべて私を殺そうとしました。今日、この男の部屋を訪れた者がいるはずです。その男が、私がこの病院に転院すること、そして部屋の番号を後藤田に教えたはずです。すぐに調べてください」
警察官は警備を担当しているだけなので、きょとんとしていた。警備を怠った自分の不始末にただ焦っていた。後藤田は固まっていて、宙を見つめている。表情はない。
「夕方に見舞いに来た男性は確かにいました」。看護師長が言った。
「調べてください。その男性が、後藤田に私を殺すように仕向けたのです」
警察官はおどおどしているだけで、「また、改めて事情を聴かせてください」と言った。
後藤田を連れて3人は部屋を出て行った。
後でわかったことだが、後藤田を見舞った男は仮名を使っていて身元はわからなかった。防犯カメラの映像は、警察が調べたが、部屋が薄暗かったために鮮明ではなく、後藤田が殺意を持って大神に近づいたとまでは断定できなかったようだ。
大神の転院先が後藤田の入院先だったことについては、誰かが意図的に行ったものではなく、偶然だったらしい。
大神の手術は無事に終わった。
後藤田は逮捕されることはなく、記憶喪失という症状のまま治療が続けられた。
(次回は、総理執務室にて)