暗黒報道㊾第六章 暗号解読
■公選首相候補
国会で激しい議論が続いた首相公選制への移行の時期が政府から示された。憲法改正が国民投票で成立したら、その3か月後には新しい首相を決める選挙がスタートすることになった。
北海道へのミサイル着弾以降、下河原総理の支持率はかつてないほどの高い数字を記録していたが、「ノース大連邦」大統領との「密約」疑惑で相当なダメージを受けた。マスコミ規制法を成立させて、報道機関への統制を強め一定の効果を上げてきたが、それでも間隙を縫うように、政権批判のニュースが流れる。
下河原の理想は、権力に対する一切の批判を許さない独裁国家の建設だった。そのためには、強大な権力を集中させる大統領制を導入しなければならない。しかし、大統領制に移行するには、憲法上の改正点があまりにも多く、ブレーンらが「まずは憲法改正に全力を集中するべきで、一気に大統領制にもっていくのは国民を混乱させる。時期尚早だ」と進言した。結局、首相公選制への意向から始めることにした。首相公選が実施されてから早くて2年後には再度、憲法改正を行い、大統領制度に移行していく方針になった。当然、下河原は初代大統領に就任するつもりだった。
首相公選に向けての「孤高の党」の候補者としては、下河原以外に党の実力者2人が意欲を見せた。下河原は2人の立候補を取り下げさせるために巨額の闇資金を使った。「ノース大連邦」からの資金援助でまかなった。
一方、野党第一党の民自党や、第二党の立憲民政党などは、憲法改正そのものに反対し、市民運動を盛り上げていくことに集中してきた。そのため、首相公選に向けた選挙態勢を組んでいなかった。公選首相の選挙についての発表があってから、あわてて全野党首相公選対策協力会議(野党公選協)を結成した。
野党として、下河原に勝てる人物を探さなければならない。民自党、立憲民政党の両党首はやる気まんまんだが、2人とも選挙に弱いことで有名で、実際に小選挙区でも落選した経験がある。およそ下河原に勝てる候補者ではなかった。
候補者は国会議員が原則だが、民間人でも20人以上の国会議員の推薦があれば候補者になれた。野党公選協で大学教授、弁護士、事務次官の3人の名前が挙がったがいずれも断られた。誰も立候補したくなかったのだ。資金が続かないとも言われた。通常の国政選挙でも手持ち資金は3億円かかると言われたが、首相公選に立候補して勝ち抜くためには10億円が必要とされた。さらに、候補者になるということは、なにかと過激な「孤高の党」に歯向かうことになる。選挙で勝っても負けても激しい仕打ちが予想された。テロにあって抹殺されるのではないか、という噂まで飛び交った。結局、野党公選協の議長役だった民自党の田島副代表に選考が一任されることになった。
田島は言った。「これから2週間、熟考する。そして、必ず下河原に勝利できる候補者をみなさんに提示する。私が提示した候補者については反対しないでほしい。全会一致で推薦し応援するように願う」。全員が賛同した。
そして2週間が過ぎた。野党公選協の場で、田島が候補者の名前を提示する時がきた。この間、田島が誰を候補者に推そうとしているのかについて噂さえも流れなかった。会議が始まった。メンバーは固唾をのんで見守った。ひょっとしたら自分が指名されるかもしれない。そんな時は、すぐに受諾した方がいいのか、「考えさせてほしい」とじらした方が格好いいのかと考える者がいた。あるいはどうやって断ったらいいのかと真剣に悩む者もいた。
幹部の1人が、「田島さんが選んだ候補はすでに立候補を了解しているのか」と聞いた。
「いや、本人にあたっていない。下河原に対抗できるフレッシュな人材だが、普通にいったら断られる。なりたい人よりも、なって欲しい人を選んだ。野党公選協のメンバー全員一致で推しているという環境を整えてから説得に向かいたい」と田島が答えた。
候補者の名前が書き込まれたペーパーが配られた。メンバー20人の机の上に紙が裏返しに置かれた。
「大神由希」と太い字で書かれていた。知らない者はいないジャーナリストだが、誰一人予想していなかった。
しばらくして、誰かが「ブラボー」と叫んだ。それを合図に歓声が上がり、拍手が沸き起こった。
「反対ではないのだが」。拍手が鳴りやんだころに、野党幹部の1人が口を開いた。
「田島さんに聞きたい。確かに若いしフレッシュな人材だ。若すぎるのが気になるが、公選首相候補にふさわしいとは思う。だが、彼女が書いた記事がマスコミ規制法に問われそうになった時に雲隠れした。さらに、今は『虹』に匿われている形になっている。雲隠れしたことが、逃げたと批判されないか。『虹』について、現政権は『テロリスト集団』というレッテルを張っている。これらのもろもろの問題点は選挙が始まる前に解決できるのか。できなければ、下河原陣営の出方によっては、大変なダメージになり、選挙どころではなくなってしまう」
田島が答えた。「大神さんが書いた記事がマスコミ規制法に違反しているかどうかについては問題はない。記事を書いた経緯について、立候補の記者会見時に説明してもらう。大神さんがなんらの罪も犯したわけではないということは有権者にはわかってもらえるはずだ。『虹』の正規メンバーでもない。堂々と表社会に出てきて立ち振る舞えばいい」
「だが、マスコミ規制法違反容疑で出頭命令が出ている。取り調べを受けることになるのではないか。逮捕される危険性はないのか」
「彼女は1度、事情聴取を受けている。マスコミ規制法が成立する前だが、事情聴取を受けることを事前にマスコミ各社に連絡した。報道関係者が注目している中で堂々と警視庁に入っていき、夜には解放された。今回は法施行後の出頭命令だが、弁護士の立ち会いを要求する。公選首相候補者であるという公の顔で活動すれば、政権側は勝手なことはできないはずだ」
「報道関係者の多くが行方不明になっているという情報がある。取り調べを受けたまま帰らぬ人になることが心配だ。下河原を甘く見ない方がいい」
「我々全員が監視して見守っていくんだ。下河原は支持率を落としているが、それでも確実に当選すると思い込んでいる。初めての首相公選だけに相当神経を使っている。首相公選の対立候補に対して、おかしなことをすれば選挙自体がぶち壊しになりかねないし、自分の支持率に影響がでることはわかっているはずだ。手荒なことはしないだろう」
「選挙になれば、『虹』と我々の関係も突いてくるな」。民自党幹部が言った。極秘事項だが、民自党のスポンサー企業が「虹」の活動資金を提供していた。
「そこは無関係だと突っぱねる。『虹』は独立した組織で、政党として資金を拠出しているわけではない。それでも突いてきたら、下河原政権と後藤田が率いた民警団との関係を逆に突っ込んでいけばいい。下河原陣営も後藤田との関係を突っ込まれることを恐れているのだから、『虹』についても深くは言及してこないだろう。最近は、『虹』のメンバーが逮捕されたこともあり、アジトへの攻撃が激化している。水面下で壊滅を目指そうとしているようだ」
大神を野党の有力候補とすることが満場一致で決まり、田島が説得にあたることになった。田島は「本人への打診はまだしていない。おそらく『寝耳に水』のことで、最初は断るだろう。粘り強く、慎重に説得していくので見守ってほしい」と語った。
田島はすぐに妻永野を通して、大神に連絡して2人だけで会った。そして首相公選に野党の統一候補として立候補することを要請した。
「えっ、えっ、えっ、首相? なんで私なんですか。冗談ですよね。政治家とか無理、無理、無理」。大神は右手を顔の前で大袈裟に振りながら即座に断った。
「そこをなんとか。野党の国会議員全員が支援する。君は『反下河原』の象徴的な存在なんだ」
「無理です。何回でも言います。政治の経験はないし、興味もありません」
「なにかやりたいことがあるのか」
「私は記者です。記者として生きていきます。調査報道に自分の一生を賭けます」
「一区切りついたら、ペンを折ると言っていなかったか」
「それは…」。夏樹が死んでしまったこと、橋詰が殺されたこと、河野を拳銃で撃ったことが頭に蘇った。その都度、報道記者を続けることはできないと思い、「ペンを折ろう」と考えたことは事実だった。ただ、「私には記者を続ける資格がない」と思ったのであり、政治家に転身しようなどとはこれっぽっちも考えていない。
「それに私は今、表の世界を歩けていない。言い換えれば逃げ回っている状態です。そんな人間が選挙なんかに出られるわけがないじゃないですか」
「逃げ回っていたわけではないということは君自身が一番よくわかっていることだ。下河原政権側は、大神記者を亡き者にしようと必死だった。マスコミ規制法で出頭させてからは、ほかの記者と同じように白蛇島に連れて行き殺してしまおうと企てたはずだ。地下に潜ったのもやむを得ない事情からだ。しかし、その間も君は、毒物混入事件の解決に向けて取材を続けてきた。民警団の不正摘発にも尽力した。それらを記者会見の場ですべて話せばいい。説明しにくいのであれば、私が代わりに話す。みながわかってくれるはずだ。とにかく、一気に表舞台に出ればいい。候補者になれば、誰も手の出しようがない」
「しかし、相手は下河原ですよ。後藤田が入院中だとはいえ、何をしでかすかわからない人たちです」
「君のことは今から24時間、しっかりとガードする。身の安全については私が保障する」
「選挙に立候補するからには勝たなければならない。相手が下河原で私が勝てるはずがない」
「現状では、下河原が優勢であることは間違いない。だが、選挙は何があるかわからない。下河原が行おうとしている悪政を愚直に有権者に訴えていけば、逆転は十分にあり得る。君は下河原を糾弾する上でその言葉に説得力のある数少ない人材だ。覚悟を決めてくれ」
下河原が公選首相になり、さらに大統領になって独裁政治を敷いた時のことを考えるとぞっとした。下河原の野心と、実現するためにはなんでもやってしまうという恐ろしさを知っているだけになんとしても阻止したかった。
だが、自分が立候補して選挙戦を戦うというのは別だ。報道記者として、ニュースで勝負するのが自分らしさだという考えは揺るがなかった。何と言われても、大神は要請を断った。その後もいろいろな人物が説得に来た。
大神が信頼している弁護士の永野洋子とも会った。田島の妻だ。
「選挙に立候補して戦ったら。勝ち目はないかもしれないけど。でも思っていることを主張するだけ主張したらいいんじゃない」
「そんな無責任な。私は、田島さんが適任だと思います」
「田島はダメよ。私と反社会的勢力との関係が選挙戦で追及されるに決まっているから。週刊誌の記事で大々的に取り上げられたし、マイナスイメージからのスタートでは、負けることが決まっているようなものだからね」
「そんなことはないと思います。政治信条は国民の共感を呼ぶはずです」
「とにかく私は大神由希が一番いい候補だと思うけどね」
「私はこれまで永野さんの言うことはすべて正しいと思って聞いてきました。信頼していたし、助言が的確だったからです。でも首相公選の候補についての永野さんの話は説得力がありません。ご主人に説得するように頼まれただけでしょ」
「ハハハ、ばれた? 確かにいきなり、首相公選候補なんて酷だよね。報道の世界と違って、あの世界は生き馬の目を抜く世界。清濁併せのまないといけない。しかも、『清』と『濁』の幅がありすぎる。深い沼の底に沈殿した泥まで平気で飲まなければならない世界だよ。それが大神由希にできるのかどうか。でも下河原の闇の部分をよく知っているのは大神さんだからね。ペンをマイクに持ち替えて、思いっきり悪の部分、負の側面を訴えたら、有権者に響くと思ったのは本当だよ」
「そんな泥水は私には飲めません」。永野の説得も失敗した。
大神は一言も受諾するとは言っていないのに、勝手に野党統一の最有力候補として、名前が取りざたされ始めていた。政治の世界の怖さを早速、思い知った。
伊藤楓から電話がかかって来た。
「大神先輩、日本の首相公選に立候補するんですか? 『ジャーナリスト大神由希 立候補決める』という記事を書いてもいいですか」
「だめ、だめよ。大誤報よ。私は立候補する気はさらさらないから。お金だってかかるらしいし」
「お金? 選挙にかかる費用ですか。それなら任せてください。私がポケットマネーでなんとかしますよ。足りなかったら母に相談します。1億円? 5億? 10億ぐらい? 10億というのはちょっときついかな。半分は返してくださいね。政治家って儲かるんでしょ。首相になったら、ウハウハではないですか? そうだ、私が財務担当になりましょうか。まずは募金を広く募りましょう」
「バカなことは言わないでちょうだい。話していることのレベルが低すぎる。募金なんて必要ないから。そもそも立候補はしないんだから」
「なんだ、おもしろくなってくると思ったのに。大神先輩が公選首相や大統領になれば日本は変わりますよ。世界に誇れる国にきっとなるはずです。逆に下河原が大統領になったら、日本は大変なことになります。軍備を増強し、核兵器を保持して、国際間のもめごとを戦争で決着つけようとする。絶対にだめです。『国境を他国と接していない島国だから戦争になっても有利だ』と下河原陣営は主張しますが、逆だと思う。狙い撃ちされるでしょう。滅亡への道です」
「私も楓と同じ心配をしている。問題だと思う点については記事にして書いていくべきだと思う。それが下河原の野望を打ち砕くきっかけになる。そして、軍事に頼らずに世界平和を希求するにはどうしたらいいかを明確にしなければ。その理論武装が大事だよね。今、日本がどちらの道を歩むかの岐路に立たされている」
「言っていることは、公選首相候補の発言ですね。決して一記者が語る内容ではないですよ」
「それはまた別の話よ」
「なんでそんなに首相になるのを嫌がるんですか」
「記者はあくまで記者であって、当事者にはならないし、なれない。書いた記事についてはもちろん責任は持つけど、公選首相になって日本の針路と、すべての政策に責任を持てだなんて。政治家を志していたわけではないし、資質の面や能力的にも無理でしょ、どう考えても」
「すべてに責任を持つ必要はないのでは。それぞれ担当の大臣がいるんだし、優秀な人を選べばいい。総理は、国の針路を明確に示してくれればあとは支えるみんながやるんだから」。楓が何を言っても、大神の意思は変わらなかった。楓はつまらなそうに電話を切った。
野党候補が決まっていない段階でも、盛んに世論調査が実施された。その情勢は下河原が依然として圧倒的に優勢だった。世界情勢が緊迫している中で、「軍事的な強化が必要だ」と言う下河原の主張が根付いている上に、あらゆる逆境の中でも、下河原の雄弁な語り口が国民に浸透していた。
仮に大神が立候補しても勝つ可能性は低いと見られていた。
(次回は、■セイラが記者会見に登場)
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小説「暗黒報道」目次と登場人物
目次
プロローグ
第一章 大惨事
第二章 報道弾圧
第三章 ミサイル大爆発
第四章 孤島上陸
第五章 青木ヶ原の決闘
第六章 暗号解読
第七章 戦争勃発
第八章 最終決戦
エピローグ
主な登場人物
・大神由希
主人公。朝夕デジタル新聞社東京社会部の調査報道を担当するエース記者。30歳独身。天性の勘と粘り強さで' 政界の不正を次々と 暴いていく。殺人集団に命を狙われる中、仲間たちが殺されたりして苦悩しながらも、「真相の究明」に走り回る。
・下河原信玄
内閣総理大臣、孤高の党代表。核武装した軍国主義国家を目指す。
・後藤田武士
国民自警防衛団(民警団)会長、元大手不動産会社社長。大神の天敵。
★朝夕デジタル新聞社関係者
・橋詰 圭一郎
東京社会部調査報道班記者。大神の1年下の最も信頼している相棒。
・井上 諒
東京社会部デスク。大神の上司で、大神と行動を共にする。
・興梠 守
警察庁担当キャップ。
★大神由希周辺の人物
・河野 進
「スピード・アップ社」社長。下河原政権の広報・宣伝担当に就任。大学時代の大神の先輩で婚約者だった。
・岸岡 雄一
「スピード・アップ社」のバイトから取締役へ。子供の時から「IT界の天才」として知られる存在。
・伊藤 楓
インターネット会社「トップ・スター社」を創設した伊藤青磁の長女。大神に憧れて記者になる。
・鏑木 亘
警視庁捜査一課警部補。夫婦とも大神のよき理解者。大神が時々夜回りに通う。
・永野洋子
弁護士。大神の親友でよき相談相手。反社会的勢力の弁護を引き受けることもある。
・田島速人
永野の夫で元財務官僚。総選挙で当選し、野党「民自党」副代表になる。
★下河原総理大臣周辺の人物
・蓮見忠一
内閣官房副長官。元警察庁警備局長。報道適正化法(マスコミ規制法)制定の責任者。
・鮫島 次郎
内閣府特別顧問兼国家安全保障局長。下河原総理の指示で、最新鋭のミサイルとドローンの開発にあたる。いつも紺色仮面を被っている。
・江島健一
民警団大阪代表から、民警団本部事務局長になる。
・香月照男
民警団員。精鋭部隊入りを目指している。
★事件関係者
・水本夏樹
スーパー美容液を売るマルチ商法の会社経営者。会社倒産後、姿を消していた。
・水本セイラ
水本夏樹の一人娘。知能指数が際立って高い小学3年生で、謎の多い少女。