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「今日も頑張ったー」せめて自分くらい自分のことほめとこって話

まあ人生一度きりだし、やったもん勝ちかなとも思っている今日この頃です。日々の継続が大事だけど、頭を使いすぎて、脳が悲鳴を上げているので勉強しないDAYです。筋トレしてお風呂に入って、読書して眠ろうと思います。それでは、

すべての根源、自己肯定感

いきなりですが「自己肯定感」これは才能の一つだと思います。自分はこれでいいんだ、十分がんばっているんだと自分自身が自分を認めてあげることです。現状に満足し、怠惰になることとは違います。あくまで今の自分の立ち位置を知る感情です。

これはつまるところ「自分を認める勇気」だと私は理解しています。

謙遜という文化

自己肯定感の話をした一方で、日本人の持つ文化として、謙遜があります。

何か褒められた時など、「そんなことないです」などとへりくだり、相手を立てるという美徳に満ちた素晴らしい日本の文化の1つです。一歩引くようなふるまいをすることで、相手を立て、持ちつ持たれつというような文化とも言えます。

古き良き日本の文化ですが、最近はこれが行き過ぎて少し、謙遜を通り越して、卑屈になっている場合も往々にしてあるのではないかと思います。

少し自分の言動を振り返ってみてほしいのですが、必要以上に相手より下手になろうとしたことはありませんか。

「そんなことないですよ」と、頻繁に使う人は要注意かもしれません。

褒め言葉は素直に貰う

誉め言葉、賞賛をしっかりと受け取りながら生きていきたいです。

褒められるという経験は歳を重ねるごとに減っていくと思います。褒めるという行為を前に、相手より下になりたくない、なんであいつなんだという嫉妬などが出てくるからでしょうか。

まずは他の人の成功を手放しで喜び褒められるようなマインドを形成し、相手からの賞賛も素直に受け取るようにする。このように心掛けることも大事ですよね。

それでもよく「そんなことないです」などと言葉を使ってしまいます。謙遜することは今の自分を認めていないことに繋がります。では、その自分とはいったい何者だろうかという点を考えたいと思います。そもそもあなたが謙遜したあなたは、あなた自身なのでしょうか。自分を自分たらしめる確たるものはなんなのでしょうか。

自分とは何か

少し哲学的な話をすると、自分が自分であると言い切れるその理由はなんだろうか、という疑問にどう答えるのかという話です。

手足などの体を意図するままに動かせるからでしょうか、その場合はその肉体のことを自分と言うのでしょうか。あるいは、その考えや思考のことを指すのでしょうか。思考しながら行動もしているので、そのどちらも含めて自分と言い切るのか。

正直、私はこの体が自分自身のものだという確証は持てません。体だけが全てだとも思いません。あくまで、意思を反映してくれる器であるのではないかと思う訳です。しかし、その意思があなたたるものなのかと問われるとそれは分からないのが現状です。

自分が何者か、この体が何かもわからないのに、謙遜したりしている状況がそもそも不思議だと思いませんか。なので私は自分が何者かもわからないうちは、もらえるものはもらっておこうと考えます。

あなたの自分の定義、もしよかったら聞かせてください。

まとめ

時に「自分」の不足にばかり目がいってしまうこともあります。マイナスの感情は「心と呼ばれる自分」を消耗させます。なぜこれが出来ないのか、というように、出来ないことを責めてしまうような場面はよくあります。

でもこれは、何か失敗したときに、なんで失敗したんだと責めるくらい意味のないことです。結果として出てしまっていることを今さらどうしようもできません。

だったらそのことを受け入れ、どのようにしたらできるようになるのかを考える方が建設的ではないでしょうか。なぜ出来なんだろうかと落ち込む必要は全くないと思います。どうしたら出来るのだろうかと考える方が心にも負担がかからないで済むからです。不足に目を向けるのではなく、積み上げることが出来るものに目を向けるそうした心掛けが大切です。

自分とはなんぞやと疑問に決着がついていないうちは、貰えるものは貰っておいて、必要以上に落ち込まない事が大事だと思います。無理にすごいとか思えなくてもいいですし、今日を生きた自分をまずはほめてみればいいのではないでしょうか。

「今日も頑張ったなー、お疲れ自分!!」と。


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