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大空を気持ちよく飛ぶよー♪赤ハナつけてね(笑) 1-2022/03/07

 フルタイム勤務のサラリーマン・ソーシャルワーカーを終了してもうすぐ2年。ようやく、拙いながらも自分のこととか書いてもいいかなという気になってきた。
 36年間と2か月のサラリーマン・ソーシャルワーカー時代。誰に縛られていたわけでもないのだが、自分のことを曝してはいけないと思ってきた。
 だが、もうそんな縛りはない。50代後半になって赤ハナのクラウンになれたのだが、そうなっていく自分のこと、書いてみようか。

 あと1か月で、なんと62歳。そう、私の誕生日は4月7日。ちょうど2年前の4月7日に還暦に辿りついた。ほんとに正に辿りついた、というかんじ。母の享年が59歳だったからか、自分の元気な60歳以降の姿を描けずにきた。周りには、年を重ねてなお輝く素敵な先輩たちがたくさんいるというのに、だ。60歳を迎えるその日がくるとは思えず、もし来たら号泣するんじゃないかと本気で思っていた。だが、その日2020年4月7日、日本に初めての緊急事態宣言が発出された。世の中はなんともぞわぞわとした感じ、、、私の誕生日どころではなかった(笑)。当の私は、そんな世の中のぞわぞわを横目に、どこか感情を殺すように淡々とその日を暮らした。ツレが近くの成城石井でワインと食べ物を買って祝ってくれたし、3月末にフルタイム勤務を終了したばかりで、いただいたお花が部屋には満ちていて華やかだったが。

 この日を境に、自分を支えてきたらしい「なにか」が変化したことに気づいた。

 わたしの母は59歳で他界する前の約7年、連れ合いである父の闘病と在宅介護を担っていた。正確に言えば、在宅介護生活は本人の病気がわかる前までの4年間だったが。母53歳の時父が大病発症。父は重度の障害をもつ身となった。約1年の入院を経て在宅介護生活に突入。母54歳から58歳は、私の大学生時代と重なる。私の大学卒業時に母のがんがわかり、2年間の闘病の末あちらへ旅立ってしまった。母の闘病中、父は、いわゆる療養型病院に入院した。いや、してもらったという表現が正確。
 私は自分の50代の日々、両親の歩んだ50代を毎日辿っていくことになった。53歳になった時から始まった。53歳、専業主婦だった母にとって大黒柱の父が倒れた年。末娘(←私)はまだ高校生で父の職場復帰は無理そう。いったいどんな思いだったか。55歳、父が発症した年。父は発症後15年間、ほぼベッド上の暮らしになった。介助があれば車椅子に2時間くらい座れたが、他界するまでの彼の世界はとても狭かったろう。57歳、母の病気がわかった年。今から35年以上前のこと、本人へのがん告知は憚られた。58歳、母がんの再発で再手術。はじめの手術後、大して元気にならないうちに再手術。自分のからだ、自分の人生、いったいどう思ったろう、どう受け止めたのだろう。真実を告知できず、真正面から話せなかったことが、ただただ悔やまれる。

 還暦に辿りついた後のある日、60歳の母は、こんな時どうしたかな、、、と思う瞬間があった。でも、60歳になった母はいない。もう母の人生を辿ることはできないと気づいた。どうしたものか。昇りつめた崖の上から、飛び降りねばならないような気持ちになった。

 両親の50代は、共に闘病の日々だった。私は自分の50代を歩みながら、二人の50代を辿ることが、とてもとても苦しかった。なぜか、いつも出勤前の通勤途上で二人の50代を辿っては涙していた。だが、あの日を境に気づけた。実は、二人の50代を辿ることで、ちゃんとその姿に私は励まされていたのだ。そう、自分を支えてくれたらしい「なにか」とは、苦しくても生き抜こうとしていた二人の姿だったのだ。

 父は、母と死別後、特別養護老人ホームで70歳まで暮らした。建物は古かったが、個別ケアに早くから取り組み、飲み会もあるようなホームだった。時に、「ボクのかわいそうな左手」と麻痺した手を撫でながら、好きなスポーツ観戦を楽しみ余生を過ごした。身体は自由にならないが、投げやりになったり愚痴をこぼすこともなく、周囲に感謝もして自分の境遇を受け止めていた。

 私は今、昇りつめた崖から飛び降りるのではなく、鳥のように飛び立ち、大空をすーいすーいと飛んでいるような気持ちになっている。命あるうちは、自分の境遇を素直に受け止めつつ、好きなことを楽しめばいいよ、小さな幸せを見つけて命を全うすればいいよ。あの日を境に、60代の父がそんなふうに伝えてくれていることに気づけたのだ。大空を飛ぶ鳥のように世界を俯瞰しながら(おおげさか笑)、出会えた人と自分らしくかかわって、、、。そんなふうにしてから、あちらで楽しくやってる父と母二人に会いに行けたらいいなあと思う。

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