HiranoSachiko
このマガジンはクラウンの師匠まりちゃん(金本麻理子さん)とのつながりから出会えたパッチ・アダムス氏に関わる記事をまとめました。HiranoSachiko noteは、還暦後のステージに突入し憶えていることをメモメモしている回顧録。なんでクラウンでありたいかも、過去を振り返りながら探究してまーす(笑)。
まさかの「クラウンさっちー絵本原画展」@ムッチーズカフェ の開催がいよいよ近づいた。ほんとうの作家さんのように、世に絵本をじゃんじゃん送り出しているわけじゃないから、ファンがいるわけがない。原画展をひらけるという、あれよあれよの展開にびっくりだが、驚いてにやにやしているだけではいけない。こんな素人の絵を展示してくれる、懐ふかーいお店(ムッチーズカフェ)を連日閑古鳥にするわけにはいかない、、、そんな想いから、年賀状でつながる旧知の方々にもお知らせ葉書を必死に書いた。そしたら、
クラウン仲間のクラウンてっちゃんが、OEKAKIクラウンさっちーを使って、絵本を創ってくれた。 「ナイス クラウニング」 え/クラウンさっちー ぶん/クラウンてっちゃん (制作:船越哲也 発行:オフィス幸知 自主制作本) そして、なんと、絵本の原画を、ムッチーズカフェ@西荻窪 に展示してくださるという、人生の一大事!! (このnoteの冒頭の写真は、クラウンさっちー原画展のご案内葉書です。原画展のご案内は、この記事の最後にも掲載しています) 私は絵を描くの
先々月5月(34-2024/5/27)と先月6月(35-2024/6/27)の表紙は、CAP(子どもが様々な種類の暴力から自分を守る方法を学ぶ参加体験型プログラム)で伝えている、 「子どもは、 安心して、自信をもって、自由な気持ちで生きるけんりがあるよ」 の、「安心」と「自信」のポーズをするOEKAKIクラウンさっちーだった。この2つの絵が連続したのは、ただのぐうぜん。だが、次は「自由」のポーズをとっているOEKAKIクラウンさっちーを表紙に掲げたく、「自由な気持ちで
この4月に64になったが、これまでにたった1回だけ、「頭のてっぺんから足の先まで」幸せを感じることがあった。これだけ生きられたのだから、辛いことばかりではない。小さな幸せやら、中くらいの幸せやらは一杯あった(はず、、笑)。だが、頭のてっぺんから足の先まで幸せ実感、、、はたったの1回。 多分季節は今ごろ、6月梅雨どき。 このnoteになんども書いたが、高3、18歳、1978年5月22日に父が脳梗塞で倒れたあとのわりと直後のこと。まだ父は意識朦朧中。 いったいうちは
「あなたっているとなんだかあんしんだよね」 なんてうれしい言葉をふりかけてもらったんだろう~と気づくのに、すこし時間がかかった。が、じわじわと自分が悦んでいったのがわかった。 この春のある日のこと。少しだけ手伝っている保育現場でのこと。保育現場の経験はないし、子どもを育てることもできなかったから、業務上役に立っていてそう言われたのではない。 赤ハナクラウンになってからの私の憧れとは、実は、自分がここにいるだけで人が笑うことである。芸人のように何かおもしろいことを言
2024年4月7日、4つ(64歳)になった。 母が享年59歳だったから、60過ぎに元気でいる自分の姿を全く想像できずに50代を過ごした。哀れなほどに、おろおろと気持ちは低空飛行だった。だってもうあと少しだから、、、と。定年前にフルタイム勤務をやめたのも、もう元気ではいられないと思ったから。4つを迎え、そんなことを思っていた自分が可笑しくておかしくて、笑ってしまえる(笑)。元気でいることに感謝だ。 ここへきて、複数の方から、 「今がいちばんイキイキしているねーー」
「どうやって超えたんですか、、、?」 ほんの最近お母様との急なお別れをした方からの言葉。「あなたはお母さんとの別れをどうやって、、?」と。その方は友人ではない。とある居場所的な場で出会った方の言葉。応えは、しどろもどろに、、、。ろくなことを言えなかった。申し訳ない。 正直、超えてはいないのだ、私。そう自分の中で認めることができたときに、少し心が軽くなったのを覚えている。グリーフは解放されない。私はいつでも涙が溢れてくる。解放される「時」はこない。 でも、こなく
2月といえば入試シーズン。ン十年前の大学入試をふと思ったとき、ぱあーと浮かぶ映像(画像かな?w)は、ホイルに包まれたツナサンド。どうしてだったか思い出せないが、母にリクエストした。お昼にツナサンドをぱくついて、あんまりできがよくなかったなーという大学から合格をもらい、おっいけるかも!と思ったとこの桜は散った、、(笑)。 第一志望と第二志望に落ちた。ちょっとばかり公立のなかの進学校だったから、なんで浪人しなかったの?なんて言う人もいた。もう1年の受験勉強?!には耐えられそ
2024年を迎えました。いったいどんな年になるのか。明けた途端の元日に親友が来てくれてスキヤキ!!うれしいはじまりだった。だが、能登半島の地震ニュースに驚愕、鍋をつつくのが申し訳なかった。自然は、元日も無関係と思い知る。能登半島のみなさん、心よりお見舞い申し上げます。 年明け、かかわるNPOが企画を担当するシニア向けカフェで、お正月の遊びを尋ねる機会があった。参加のみなさん(70代80代がほとんど)からは、いろいろいろいろ、ひととおりの遊びが出てきた。その日は、みんな
2023年大晦日を迎えた。思いのほか初めて体験をした今年。出会えたみなさま、支えてくれた方々に感謝の想いばかり。 昨日12月30日は、ここ数年の恒例行事となった、茨城県那珂市のとんがりはっとで買いものをして、常陸太田市にある母方祖先のお墓にお参り、イトコと叔母あやこばちゃんとの大おしゃべり大会。恙なく終えることができた。そして、あやこばちゃん作のし餅と松前漬けをもらい、いよいよ新年を迎える気持ちが高まった。89歳のあやこばちゃんからは、「今年が最後かも」と。そのあと、
母の実家は酒屋だった。そこで育ったいとこは、現在は結婚して隣町に暮らすが、ひとり暮らしをされていた叔母(いとこのお母さん)が他界し、実家の跡片付けをしている。地元に足繁く通っているにちがいない。酒屋だったからか、地元の酒蔵とのつながりがあるのだろう。この11月の終わりに、搾りたて(!)という酒粕を送ってくれた。 こんなにいい香りがするんだ~というくらい香しい。 ふと、その昔、私が小学校低学年の頃だと思うが、、、母の実家の祖母が、手づくりの梅干しやらっきょうを箱に詰め
私の4つ上の姉は、10月12日が誕生日、命日は10月9日。あと3日生きられたら42歳になれたのに(享年41歳)。私の姉の思い出を綴った1年前のnote 1) をもとに、「沁みる夜汽車」というNHK番組のひとつのお話に取り上げていただいた。初回の放映が9月半ば、10月にも放映され、そこへきて姉の命日と誕生日が通り過ぎるものだから、この10月は毎日姉のことを想っていた。ふだんだと命日には姉の好物のかりんとうを買ってきたりするのだが、今年はしそびれた。毎日想っているから、まあいい
63歳になって早半年。6回めの3つの「初めて」体験は、まさかのテレビ出演。約1年くらい前に書いたnote「電車の音がさ、懐かしいから窓あけておいてよ」16-2022/11/07 (https://note.com/officesacchi/n/nd9242bc6ef9e)を、NHKの番組ディレクター氏が見つけて連絡をくださったのだ。姉の思い出を綴ったnoteだ。「沁みる夜汽車」は、鉄道に関する実話をもとにしたお話を集めた番組。国鉄マンの父の下で育った私の思い出が、この番組
今日は、語呂合わせで「鼻の日」「花の日」「バナナの日」とか。いろんな日らしい。鼻の日を意識したのは、赤ハナをつけるようになってからだから、ほんの数年のこと。クラウンになったからね(笑)。暑苦しい今夏、この日に思い出したのは、夏の日に父が入院する病院で号泣した母の姿。もしかしたら誰にも話したことがないことかもしれない。 これまでにも度々書いてきたが、私が高校3年の5月、父が大病に倒れ約1年間入院、父は重度の障害者になった。命はとりとめたが、重たい障害が残るらしいとわかった
2023年7月2日日曜夕方、20年ぶりにTULIPコンサートに行けた(50周年コンサート@国際フォーラムAホール)。2回目の3つの歳(つまり13歳 笑)、初めてTULIPを生で観て聴いたとnote21-2023/04/07に書いた、あのTULIPだ(参照:3つは「はじまり~はじまり~」の歳https://note.com/officesacchi/n/n28e5cc7a8188)。 TULIPに熱狂したのは中学生のとき(1973年~1975年)。友だちの影響が大いにあ
5月最終の週末、クラウンの師匠まりちゃんの20年来の友人であり、ケアリング・クラウンの仲間であるイタリアのジネーブラが来日した。ジネーブラは、まりちゃんの師匠パッチ・アダムスと1994年に出会い、以来共にクラウンとして戦地を含めた世界各地を訪れ、現在も活躍するクラウンである。とにかく存在そのものと表現がとってもチャーミング。ずーっといっしょにいたい~と思ってしまう素敵な方。今回2日間のワークショップを開催してくれた上、乳幼児親子サロンやシニアの暮らす場でのクラウニングもされ