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対立を恐れないコミュニケーション力

 ノーサイドの笛は、勝者と敗者を決める音です。しかし真意は、互いの健闘を讃え合う、すなわち、互いに高めあった喜びをかみしめる音ではないでしょうか。


決めつけない

 組織において、対立が生じたときは、多くの場合、その対立している個々の要素や出来事を単独で考えるのではなく、それが関係し合っている他の要素を含めた全体像を俯瞰することで、解決の糸口を見つけ出そうとするのではないでしょうか。
 すなわち、その対立をもたらす根本の構造を明らかにしようとするのだと思われます。
 しかし、そこで明らかになる全体像とは、所詮、一方向からみた構造に過ぎません。したがって、そのように構造を固定化した考え方では、個々の持つ経験や多様性(複雑性)を無視することに繋がります。
 だから、その対立的議論において生成された言葉の意味や解釈は、決して一義的に定義されるものではないことを前提にすることが求められるでしょう。とくに、議論における力関係が、関係者の思考や行動に影響を与えることも、無視することはできません。
 このように、個々の経験や文化の違い(差異)を認めることが、おそらく対立を解消へ向かわせる第1歩になるのだと思われます。
 すなわち、対立の解消には、議論ではなく対話が必要だと言うことに繋がるのだと考えます。

勝か負けるか

 人間の思考は、言語によって支配されています。誰もが思考するとき、母国語によって思考します。それは、母国語の文法という構造から逃れられないことを意味します。
 それは同じ母国語であっても、方言が存在すれば、同じような構造的支配を受けます。関西人が「シャレやがなぁ」とその場を取り繕うことがありますが、例えば関東人には、それが理解できません。
 余談ですが、関西の風土がテレビを通じて“流行”し、あたかもそれが普遍的価値観であるかのような錯覚を覚えた関東人が、「冗談だろう。そんなに怒るなよ」とその場をいなそうとすることが、いわゆるイジメの温床になったような気もします。
 さて、このように言語が構造に依拠しているのであれば、対立は、非言語によって解消される必要が生じきます。しかし、言語を用いず、対立を解決することはできません。
 そこで、万人に共通となり得る“論理”が、対立の解消に使用されることになったと考えます。そして、その究極の姿が“ディベート”でしょう。
 このとき、対立は「A or B」の二項対立であることが規定されます。すなわち対立の解消は、勝者と敗者を決定することであって、そこにはWin-Winの関係は存在しないとみなされます。
 つまり、対立の解消には、個々の持つ経験や多様性(複雑性)を無視することが必要だと言う考え方が席巻するのです。

無味乾燥な“公平”

 このような考え方に支配されると、そもそも言語は記号であるという発想に辿り着きます。すなわち、「あ」は「あ」であり、それだけでは意味をなさず、その繋がりによって得られる“言葉”になって初めて意味をなすという考え方です。
 ここから、言語に対する数理的理解が生まれます。すなわち、コンピューター言語です。
 これは、実際、世界言語です。そして西洋思想に則れば、数理的理解は世界の全てを説明することになります。しかも数理的理解は、そもそも個々の持つ経験や多様性(複雑性)を認めません。
 そこで、これが、最も公平かつ最適な“解”であるとの考え方が生まれ、それは、いわゆるシンギュラリティに通じていくことになるのでしょう。
 確かに数理的言語は、世界言語であり、誰に対しても共通の理解を得ることができます。しかし、それは全ての言語を包含するのではなく、共通項のみに削ぎ落とされた言語ではないでしょうか。
 すなわち数理的言語は、世界の全てを説明するのではなく、むしろ人間性を失った世界だけを現すように思われます。

第三極を見出すアナロジカル

 もちろん、この人間性とは、個々の持つ経験や多様性(複雑性)です。
 すなわち、これを無視した“解決”は、結局は暴力を伴う解決(言語を用いずに対立を解決する方法)に向かってしまうのではないでしょうか。
 論理に基づく解決は、結局のところ非人間的な解決しか生みません。したがって、論理に依らず、かつ、言語に依存する解決方法を見出す必要があると思われます。
 そこで、論理の反語を、非論理ではなく類推と置く考え方はどうでしょうか。
 論理とは、A is B(AはBである)です。一方、類推はA as B(AはBとして見る)です。
 類推とは、連想や空想や予知などですが、さらに「過ち」や「ズレ」あるいは「軋み」さえも含まれるものでしょう。
 このように、雑多なものを許容しながら、それぞれの立場で対立点を見ることは、人間的な解決に導くように思われます。
 例えば、「見立て」などでは、借景として後背の山を見立てることで、目の前の庭が極楽浄土を現している(今、自分は極楽浄土に来た)と感じることができます。
 このような想像力によってもたらす他者との一体感こそ、A or Bという呪縛から解き放ち、新たな第三極Cをもたらすのではないでしょうか。
 これは、一種の思考的技術であり、おそらく、議論を対話にする技術でもあるのだと考えます。

 なお、対話の技術については、「ビジネス対話~コミュニケーションに悩んだら」をご参照ください。

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岡島克佳
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