大人になんて、多分なれない。(「#社会人一年目の私へ」の裏話)
社会人一年目、私にとって、それは司法書士資格浪人生活の始まりだった。因みに「司法書士」は登記(不動産や会社)を主な業務とする士業だ。
本来、仕事の為に必要な資格だから頑張って勉強するのだろう。
しかし私は、「資格を取って、その肩書きの人間になりたい」という感じで、なんだか目的と動機の順番がおかしいままに勉強をしていたように思う。その資格があれば社会的にも一目置かれ、仕事もそのうちに舞い込み、生活も安定するであろうと思っていたのだ。そんなわけで、当然合格できずに終わった。最後と決めた試験の不合格が判った時には、何故不合格なのかもなんだか腑に落ちていて、すでにふっ切れていた。とっくに、自分はこの資格が取れないと判っていたのだろう。
仮に、何かの間違いで司法書士試験に合格していたとしても、悶々としていかもしれない。司法書士も、看板を上げておけばお客が来るなんて仕事ではない。というか、そんな仕事はほとんどない。自営業者には常に営業はつきもので、士業も決して例外ではない。営業的な動きが不得手な人は士業なんて考えない方が良い。でもまぁ司法書士なら勤務でもそこそこ給料貰えたかな?
そもそも、何故資格浪人生活に逃げ込んだかといえば、就職活動に熱心になれなかったからだ。当時、あるいは今もあるのかもしれないが、就職活動をする前提として「自己分析」というものが必要であるとやたらと言われていた。そして、私は自己を分析すればするほど、自分が何もできない事実に直面し、フリーズしてしまったのである。
「自己分析」とは何ぞや?
辞書的な定義や、やり方などは調べていただくとして、当時の自分の理解では「自分の性格や趣味趣向を過去から現在に至るまでの経験などから紐解いてどんな仕事が向いているか分析すること」くらいだろうか。
今再度文字にしてみてもやはりどこかしらに違和感を感じる。
「なんで自分を分析してみたらマッチングする会社がわかるんだ?」
当時、能力とは「英語」や、「特別な得意分野」や、「経験」のことだと思っていた。勿論、そんなものは持ち合わせていない。焦った。自己分析によって、無いものを自分のどこからか捻り出そうとしたが、ないものはない。自己分析しても「能力」が見つからない自分はどうすればいいのか、途方に暮れた。
自己分析の目的は、自分をフカボリすることではなく、「自分を俯瞰する事」だと、やっと最近になって理解出来はじめた。
「フカボリすること」と、「俯瞰すること」。
つまり、内面だけをじっと見ることと、鳥の目線で自分を見下ろすこと。
その視点の違いは、今ならはっきり判るけれど、当時の自分には理解できなかった。そして、そもそも求められている「能力」は英語とかそういうものではなかった。
事務仕事が得手か不得手か?
コミュニケーションは好きか嫌いか?
文章は書けるか書けないか?
体力はあるかないか?
愛想は有るか無いか?
日本語がきちんと使えるか否か?
等々、ごく一般的なことだった。
そんなことなら、(全部とは言えなくても)もちろんできるといえる。でも、中には「これは出来なくはないけど、やるの苦痛なんだよな」又は逆に、「これは上手いわけではないけど結構好き」というものがある。何年も、毎日長い時間を拘束されて取り組む仕事を選ぶには、小さいことのようだけれど、そういった相性の把握が大事なのだと思う。「やればできそう」なことを、外面とか給与だけを理由に選んでしまうと、結局辛くなって続かないことになりうる。
そして、言ってみれば「誰だってやればできる」ことだからこそ、自分の過去の経験からアピールできる「裏付け」をを引き出すことが、自己分析の目的だったといえるかもしれない。
また、「興味の持てる会社を探せ」という事も言われたと思う。これについても私はふわふわとしていた。どうすれば会社に興味を持てるか判らなかった。
例えば、私は子供の頃から本が好きだったが、本に携わる仕事といえば、本屋と、本の著者になることしか考え付かなかった。世間知らずも大概にしろと言いたい。本を作って売るにもたくさんのアプローチがあって、同じ「本を作る」事でもやり方も、やる事も多岐に渡っている、と最近やっと判ってきた。図書館の司書という考えも、当時全く浮かんで来なかった。なんで大学在学中に司書資格を取らなかったかと相当悔やんだ。※
(※大好きな本の相手だけしていればいい職業!しかも売らなくてもいいし、気楽!なんて素晴らしい職業を見落としていたものか…。勿論、これは間違いで、司書さんも大変な仕事だと今は認識している。図書館なんて、変な人も結構来る。無料で滞在できて、座れて、暇が潰せて、眠れて、空調がついている。でも、今もし大学生からやり直せたら、司書資格を取って図書館で働いてみたいとやはり思う。)
好きなことについてもこれである。他の職業はいわずもがなで、空虚な想像しかもっていなかった。応募先はイメージ先行で選んでいた。幼稚園児の落書きの方がマシなくらいに中味がなかった。だから志望動機も書けない。就職試験を受ける会社について興味をもって調べること、それは当時は受験テクニックだと思っていたけれど、違う。それはそもそもそうしなければ、その会社を志望することが先ず出来ないはずで、真摯に就職活動に臨む学生ならば当然の態度だったのだ。自己分析についてもそうだが、全く就職する気がない人間の態度だった。想像力も欠如していた。誰かがちゃんと教えてくれるべきだと思っていたのだろう。勿論、そんな親切で暇な人は居なかった。
知らないことは、恐ろしさを増長させる。就職試験とは何かをしっかり考え理解しなかった当時の私は、「自己分析様は、お前は無力だと仰っている。この無能をさらして、どう就職活動に挑めばいいのか。。。」と早とちりし、むやみに恐れて後ずさってしまった。採用を考える側にしたって、こんな煮え切らない様子では採用のしようがなかったであろうし、就職活動がうまくいかなかったことも至極当然の結果だと納得する。
そこから紆余曲折を経て、某資格(司法書士試験の勉強が役に立った)を取ってなんとなく開業し、食えない事業主を経て、結婚。人並みなところによくこれたものだ。開業した当時には思いもしなかった。でも開業した当時から営業ができない事には全く変わりがなく、というか、今に至ってはもはや現状に甘んじて逃げの一手である。結局、就活していた当時からほとんど成長していないのかもしれない。しかし、自分が「怠け者で、ガツガツしたくてもできない、地味な職人キャラ」だということははっきりしたので、そこを足場に少しずつ足掻いて行こうと思っている。
判ってはいても、キラキラした経営者の華やかなご活躍に一瞬目を奪われて焦ったりするんですけどね。
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