「誰かのため」こそ人間の本質である。~2人のソーシャルアントレプレナーのこれまでとこれから~
2019年2月28日、billage OSAKA内で大阪大学大学院経済学研究科 中川功一研究室主催「ソーシャル・アントレプレナー~社会的弱者に寄り添う新しいイノベーションのかたち~」が開催されました。
昨今では人材もお金もソーシャルな部分に集まっています。特に若い人たちは社会課題を事業を通して解決できる、というところに魅力を感じて、能力のある人、想いのある人が集まっています。また、社会も非常に良い方向に向かっていて、お金も集まってきています。クラウドファンディングのページなどを見てみても、自分にリターンがあまりなくても社会にとって良いことだからという理由でお金が集まっている事例もたくさんあります。
そうなってくるとソーシャルなことで起業する人に注目しないわけにはいかないでしょう。もちろん働いている人にとっては人を雇用して社会に役立つものを作っているのだから広義の意味ではそれもソーシャルだといえるでしょうが、とりわけ重要な社会課題に取り組んでいっている人たちのことを知ることは現在の社会活動、経済活動において重要なことと言えるでしょう。
イントロダクショントーク~人間の本質は助け合いである~
中川先生から今回のお二人の登壇者の紹介を交えながら、どんな視点で話を聞くとよいのか、ということを導入でお話しいただきました。
まず、石巻復興きずな新聞舎の岩元さんはなんと中川先生の大学のサークルの後輩だそうです。
岩元暁子(いわもと あきこ)さん
(石巻復興きずな新聞舎 代表)
横浜市出身。大学卒業後、外資系IT企業にて勤務。青年海外協力隊を志して退職直後、東日本大震災が発生。2011年4月に石巻入りし、泥かき、避難所支援、漁業支援等に従事。2012年4月より、ピースボート災害ボランティアセンター(PBV)の職員になり、同年7月より仮設住宅向け情報紙「仮設きずな新聞」の編集長を務める。2016年3月、仮設きずな新聞の終刊を機にPBVを退職、「石巻復興きずな新聞舎」を設立。
岩元さんはもともと東京で外資系の企業に勤めており、非常に活躍していましたが、震災の直後からいてもたってもいられず、石巻市に移り、人生を歩んでいます。
新田さんは今回徳島から大阪まで来ていただきました。
新田昌広(にった まさひろ)さん
(ギフテッド・トレラグループ代表)
大学卒業後、兵庫県内の公立小学校で約3年間勤務。退職後、郷里の徳島へ戻り、アルバイト生活。数あるアルバイトの中で放課後等デイサービスに出合い平成25年に起業。現在3店舗を運営(4月新店舗オープン予定)
新田さんはもともと小学校の教師であり、その時に、自閉症児の子供たちをもっともっときちんとケアすれば子供たちが活躍できるのに、うまいこと手が届いていない…そして、きちんとしたケア方法も確立されつつあるのに、社会に普及していない…という現実を目の当たりにし、徳島でビジネスベースで自閉症児たちのケアに成功している方です。
ともするとこの矛盾に我々は気づきません。しかしこれは人間社会の発展をひも解くのにとても重要なことなのです。
2016年に科学誌『Nature』で発表された論文。農耕が人間社会を発展させたのは特殊なことなのではないか、と記載されています。というのは、例えば棚田は利己的に走れば成り立つ仕組みではありません。棚田は何段も下の人のことまで考えられた作りになっているからです。直接の利害関係のない他人と一緒に、直接の利害関係のない人の分まで働いているのです。これは生物学的には非常にまれな状況で、今までの人類学者や進化学者たちも見落としていたことでした。
どんな生物も自分の種の保存・生存のために仲間を助けるという機能は備わっています。人間が大きく成功したのは社会を構築したから、仲間を助け協力をしたからだということもよく知られた事実です。しかし実はそこに大きな矛盾があるということに科学者たちは気づきました。
生物は自分だけでは乗り越えられない物事に直面した時に、仲間と協力してそれらを乗り越えていきます。しかしそれは自分にリターンが必ず帰ってくるという計算のもと行われる行動なのです。ゆえに、人間も協力して農耕社会を築くことで、収穫量を増やしてみんなが幸せに、ひいては自分が幸せになれると考えたのではないか、と考えられていました。しかしよく考えると、これらは自分が直接利害関係を結んでいない人たちとも協力をしているのです。
日常的に接点のない何軒も先の人のための棚田のシステム、見ず知らずの王家・貴族のために税金を納めるシステム…。身近な近親者の助け合いだけの社会よりも、これらが多く含まれている社会ほど長く繁栄しているということが明らかになりました。
例えば宗教が強く信じられている社会というのはよく発展しています。果たしてこの奉仕が誰の役に立つのかはわからないが、「社会の誰か」の役には立つのだろう、という考えに人は道徳心を抱くのです。
見ず知らずの赤の他人と共働するために人間は道徳やルールを作りました。時には神様を描いてバイブルを作り、安定・安全を保つために倫理というものを文章として残しました。何度も言いますが、こういったものがたくさんある社会ほど長く発展しています。
まさしくこれが人間を特徴づける重要なポイントです。人間の7歳児、チンパンジー、オラウータンの知性を比較した研究があるのですが、空間認識能力、図形認識能力において三者の間であまり差はみられませんでした。数学力、因果関係力においても同等の結果が。しかし一点だけ違ったのです。それはソーシャル・ラーニング。人間だけが「自分が起こした行動が他人にどう影響を与えるのか」という他人の感情を読み取る感受性が圧倒的に高かったのです。
今日の社会を築いたのは資本主義や近代社会だという声もありますが、もっと何千年という長い目で見た時に人間が成功してきたポイントは、むしろ銭金で直接的な利害関係が結ばれてきたから、というよりも、見ず知らずの赤の他人のために協力してきたことが大きいといえます。
人間の脳がもっとも機能するのは、誰かのために行動するとき。人間がもっとも喜びを感じるのは、誰かのために行動するとき。人間社会が発展してきたのは、見ず知らずの誰かのために協力出来てきたからなのです。
これらを否定して利己的な、個人のための考え方が20世紀に登場した資本主義です。経済学の祖父であるアダム・スミスが提唱した国富論も正しく読み解いていけば、アダム・スミスの競争原理は、人々が道徳的に行動するという倫理の基盤があったうえで社会をよくするために競争原理が働くのだ、という理論になります。また、資本主義の成り立ちを調べた社会学者マックス・ウェイバーはアメリカ・プロテスタントから資本主義は生まれた、という点に注目しました。「清貧(小さいコストで社会に価値を提供していけば、結局は富の蓄積になる)」を見抜いたのです。社会にとっていいことをしていれば、自然と利潤は生まれるものだと説きました。
道徳的な話が全て抜けてしまって無理やり転換したのが20世紀のことでした。しかし、それはあくまで背後に「社会のために、誰かのために」という想いがあるの上での利益なのです。
より自然な会社のかたち、社会のかたちに純化していこうと思ったきっかけの一つが東日本大震災であり、そうしたことをきっかけに「本当にこの生き方でいいのだろうか」と考える人たちも増えてきました。
ともあれ、最近の若い人たちは「働く」ということを通じて社会のために、良いことをしようという流れに純化しているのです。
しかし一回20世紀型の資本主義のシステムができてしまっているので、ソーシャルな形に会社の仕組みや働き方の仕組みを変えていかなくてはなりません。
ソーシャルであるということは「いいことをしていれば利益が出る」という単純なものではありません。そこには事業をしていく上でのメリットとなるものが中核に組み込まれていないといけないのです。それを通じてどのようにして活動を続けていく術のか、ということを身につけていければと思います。
また、ソーシャルビジネスを成功させるための固有のポイントがあります。
・協力者や金銭的支援をどう獲得するか
・経済的に持続可能なかたちとするためのポイント
・事業はいかに構想されたか
・マーケティング
・社会への志は、アントレプレナーのありようや取り組みにどういう影響を与えているのか
上記をこれからのお二人のお話から伺えればと思います。
まずは岩元さんからお話を伺いました。
読む人も、書く人も、配る人も元気にする新聞
岩元さんははじめ中川先生より登壇の依頼を受けた時、正直乗り気ではなかったようです。決して強い起業家精神があるわけでもなく、社会にインパクトを与えたい、という想いがあったわけでもありませんでした。しかし、東日本大震災から8年が経とうとしている中、東北以外の場所で震災のことを話す機会もなかなかないと思い、今回登壇を決めていただきました。
岩元さんは実は東北とは縁もゆかりもない横浜の出身。東京の大学を卒業後、マイクロソフト社に営業として4年勤めていました。営業をしながらある日、「これで世の中がどうよくなるのだろうか…。」と疑問に思ってしまったのです。
そんな中でもマイクロソフト社のいいな、と思ったところはボランティア休暇が取れることでした。有給休暇とは別にボランティア活動をするための休暇で、岩元さんはこのボランティア休暇を通じて「こんなことが仕事にできないだろうか」と考えていました。しかし、CSR関連の仕事に携わりたいと思いつつも、経験もなくなかなか配属もされず、思い切って退職をして、青年海外協力隊に参加するための勉強を始めました。そしてその時に起こったのが、東日本大震災でした。
2011年4月、震災発生後わずか1か月後にボランティアとして石巻を訪れ、テントでの暮らしをしながら泥掻きや避難所の支援などを行っていました。最初は1週間だけのボランティアの予定でしたが、実際活動してみると泥掻きの大変さや想像を超える甚大な被害を目の当たりにして、少しずつ少しずつ期間を延長して、現在は石巻に住んでいおり、なんと8年が経過しました。
2012年1月。泥掻きなどの力仕事がひと段落ついたころに、岩元さんは当時仮設住宅の住民向けに発行されていた「仮設きずな新聞」の編集長に抜擢されます。2012年の4月には新聞の発行元の一般社団法人ピースポート災害ボランティアセンター(PBV)の専属職員として働き始めました。当時はみんなで居酒屋をシェアハウスのようにしてみんなで協力しながら働いていました。
そして、2016年3月にはそのPBVも退職し、同年4月には「石巻復興きずな新聞舎」を立ち上げました。
2016年3月まではPBVが発行していた「仮設きずな新聞」。学生ボランティアたちと協力しながら直接手渡しで仮説住宅の被災者のもとへ新聞を届けていました。ボランティアと被災者との交流で心の支えとなった、という読者の声も多く、住民に寄り添った新聞としてメディアにも取り上げられました。
しかしPBVの石巻での活動終了により仮設きずな新聞は終刊することになります。
当時岩元さんは結婚したばかり。旦那さんは東京にいたので、岩元さん自身も東京に帰るのかなぁ…。なんて考えていましたが、住民の「続けてほしい」という声と、ボランティアの「続けたい」という声、その両方を耳にしました。住民の声は予想はしていましたが、制作側のボランティアの人たちからの声は想定外でした。ボランティアには記事を書く人と新聞を配る人といるのですが、その両方とも、決して楽な仕事ではありません。しかし、それでも記事を書いた反響が嬉しかったり、手渡しで新聞を渡したときの「ありがとう」の一言がうれしい、という理由で続けたいという声がたくさんあがったのです。
岩元さん自身も震災当時、テレビで増えていく死者数、行方不明者数を見て歯がゆく感じ、一方で実際にボランティアで泥掻きをすることに、復興に参加できているという実感、喜びがあり、とてもやりがいを感じていました。
まさか他のボランティアの人からも続けたい、という声を聴くとは思ってもみませんでしたが、形を変えて続けられないか、と団体を立ち上げてついに「石巻復興きずな新聞舎」を設立します。
石巻復興きずな新聞舎には大きくわけて4つの活動があります。
1>新聞発行を通じた情報発信による住民の自立促進
新聞の記事はボランティアの人が10人くらい交代で執筆。医療・健康、地域づくり・街づくり、イベント情報などの記事を掲載し、住民の自立促進、社会参画を促す紙面づくりを行っています。
2>新聞配布を通した訪問・傾聴・見守り活動による心のケア、つながりづくり
スタッフやボランティアが直接訪問して新聞を配布します。手渡しで新聞を配布し、住民さんの声に耳を傾けることで、孤立を防ぐ見守り活動や心のケアを行っています。
3>地元ボランティアの育成による地域支え合いの仕組みづくり、やりがいづくり
「石巻復興きずな新聞」は多くの地元の方々と共に活動しています。参加する人の「やりがい」となっているほか、実際にその地域に住む人が新聞を配布することで地域支え合いの仕組みづくりにも寄与しています。
4>県外ボランティアの受け入れによる震災の風化防止
新聞配布や記事執筆を担う県外ボランティアを受けて入れています。「石巻復興きずな新聞」は、ボランティアの受け入れによって石巻への来訪者(交流人口)を増やし、震災の風化を防ぐ受け皿になりたいと考えています。
新聞を再開させ、以前は仮設住宅にだけ配っていた新聞を復興公営住宅にも配るようになりました。すると、再開直後に復興公営住宅の住民から「勇気づけられた、うれしい」という声をいただきました。しかし、こうした活動を続けていくにはお金が必要なのも事実です。
最初に団体を立ち上げた時はいろいろと物事が急でした。2016年の1月、2月に仮設きずな新聞を終刊させることをボランティアに告げて、でも続けようとなってから、わずか2カ月(2016年4月)には団体を立ち上げていました。立ち上げた当初は本当にお金がなかったため、クラウドファンディングを活用しました。多くの方々に支援をいただき、目標金額を大幅に超える支援金が集まり、成功しました。
そして助成金も使用しています。しかし、助成金は使用用途が制限されていることが難点です。自由に使えるお金は依然それほどはありませんでした。
そして2年目から始めた資金調達の方法が賛助会員制度です。年会費1口5,000円を納めていただければ月々きずな新聞を届けます、という内容のものです。賛助会員のいいところは全国に会員がいることです。新聞を送るだけではなく、最近の活動報告も手紙として送っていて、全国の人とつながっている感じがしていいな、と岩元さんは感じています。
収益ですが、必ずしも儲かっているわけではありません。収益の75%は助成金で、賛助会員の会費、寄付金などが占めています。また、ボランティアからも活動協力金を徴収しています。(もちろん任意です。)
支出に関して言うと、人件費が一番大きいです。活動のための諸経費や新聞の印刷代、事務所の家賃等で出費が発生します。
ここで岩元さんが大切にしていることをお話しいただきました。
1>共感を生む情報発信
石巻復興きずな新聞ではSNS、ブログの運用もしています。人は心が動かされたものをよりシェアしてくれると岩元さんは考えています。見てもらう人に共感をしてもらい、シェアをしてもらい、そうしてどんどん人を巻き込んでいく事に注力しているのです。日々の活動の中で感じたことや被災地の現状、課題などを発信しています。
2>ボランティアのやりがい
石巻復興きずな新聞はボランティアがいてこその活動。ボランティアの人たちがいないと成り立ちません。そんなボランティアの人たちにモチベーションややりがいを感じてもらうことが大切だと考えます。そしてみんなに共通しているのは「人の役に立ちたい」という想いです。人の役に立てる、という実感を持ってもらえるように日々注意しています。
「最後の一人が仮設住宅を出るまで 読む人だけでなく書く人、配る人も元気になれる新聞」
上記のことを信条に団体を立ち上げました。読む人だけではなく、作る人も元気になるようなものでないと続かないと考えています。
3>自分を大切にすること
よく周りの人達に自己犠牲をしていると思われますが、岩元さん自身はハッピーだと話します。岩元さんは東京に旦那さんがいますが、岩元さん自身、住民票は石巻市に置いています。月に1~2度東京に帰りますが、パソコン一台あれば仕事ができるようにしているので、1週間ほどは毎度滞在しているようです。自分や自分の家族がハッピーでないとほかの人の支援というのはなかなかできません。だから岩元さん自身ハッピーに活動するよう心掛けています。
続いて新田さんからお話をいただきました。
福祉×科学×ビジネスで持続可能な自立支援を
福祉の業界に科学的な目線とビジネス的観点を入れれば持続可能性は生まれます。障がい者雇用でも同じことが言えますが、障がいを持つ子供と接することはハードルが高いと感じていませんか?しかしそうではありません。私に出来てあなたに出来ないはずがないのです。
株式会社高徳を2013年12月に設立した新田さん。当時27歳で会社を立ち上げましたが、設置してから県とのやり取りがあり事業を開始、という流れだったので、立ち上げた当時はまだ事業というものを行っていませんでした。
現在は障がい児通所施設として、小学校に上がった子供と未就学児にあたる年齢の子供たちを預かる放課後デイサービスなどの多機能施設と個別指導型事業所「ギフテッド」を徳島県内で運営しています。
経営理念は「福祉に科学性を求め 自立を支援することで 違いを認め合う社会をめざす」。福祉に科学を求めるのはなぜか。それは一人ひとりの自立を支援するためです。「自立」というと少し厳しい印象を抱くかもしれません。しかし、「自立」は「依存」と対極の位置にある、というわけでもないのです。事業活動の中で障がい児を持つ家庭に訪問するときに感じるのは、親と子供の共依存です。子供は親だけに、親も子供だけに依存している、両者が両者にしか依存していない状態が多いのです。新田さんは親以外にたくさんの依存先があることを自立と定義しています。濃い依存、軽い依存など軽度は問いませんが、たくさんの依存場所を地域の中に築くことで地域とのつながりを持ち、重い障がいを持つ子供でも自立できるよう目指しています。そして、たくさんそういった子供他たちが社会とかかわりを持つことでいろいろな人がいるんだと、お互いの違いを認め合える社会をめざしたい、と考え経営理念を定めました。
新田さんは徳島県出身で、母方の親戚がほとんど漁師、という家庭環境で育ちました。しかし、父親の「大学に行かせたい」という想いもあり、新田さんは親戚の声を押し切って大学まで進学します。大学で教職免許を取得し、卒業後は兵庫県芦屋市で臨時的任用教諭として小学校に勤務しますが、なんと勤務先の校長先生の推薦を受けて同志社大学大学院に入学します。しかし、小学校に勤務をしながらの大学院生活だったこともあり、卒業は叶わず中退。小学校での勤務も、自分が思い描いていた教師像とギャップを感じてしまい退職します。その後は支援学校の非常勤講師として働きながら、複数の放課後デイサービスの仕事とダブルワークに。やりがいや強い想いもなく、最初は給料だけで選んだ仕事でしたが、当時の状況に愕然としたのです。
そもそも「放課後デイサービス」とは何でしょうか。
放課後デイサービスは学校に通学している障がい児を、放課後や夏休みなどの長期休暇中に預かって、生活能力の向上のための学習や、放課後親が迎えに来るまでの居場所として機能を果たす施設です。
当時、これらの施設は「小資本・高単価」という言葉で儲かるビジネスとして世に広まり、乱立してました。平成29年には全国に10,000事業所にまで到達します。しかし、ノウハウがない、最低基準の人員配置、専門知識のなさなど、各所でトラブル、事故が当然のように発生し、最近でも技術不足等が原因で子供たちへの虐待が問題になっています。
新田さんが運営している個別指導型事業所「ギフテッド」。当時、起業してから開業するまでに少し時間はかかりましたが、新田さん自身の教員の経験を生かした個別の学習支援を中心に短時間事業所を展開していきました。長時間滞在や送り迎え等のサービスは行わない代わりに、きちんと一人ひとりと向き合って学習支援をする、という点でほかの施設と差別化を実現します。他の施設にない技術や、発達障害児が利用できるという点から利用や相談が急増しました。
ギフテッドの特徴は入所に障がい者手帳がいらないことです。障がい者手帳を持っていないと入所できない施設が多いのですが、ギフテッドでは自治体に「困っている」ということを申し出てサービス提供受給者帳をもらって入所することが可能なのです。なので、発達障害に限らず、子育てに失敗してしまったり、困っている人でも入所が可能でした。
日本で問題視される発達障害は、実は海外では全く問題にならない、ということがあります。これは、たくさんの人がいてたくさんの価値観があるということがみんなの中に前提であるので、当たり前のことといえば当たり前なのですが、現状の日本ではそうではないのです。日本では「これができて当たり前」「何歳だからこうあるはずだ」という価値観に縛られているから問題になると新田さんは考えています。
メディアでも間違っているといっても過言ではない情報が流れています。問題点は社会にあり、発達障害自体はただの特性であるにも関わらず「発達障害はどうしたって治らないもので、親は悪くありません。だから認めてあげよう」とわざわさ流布しているような現状があります。本当はそうではないのです。
そうした現状もあり、少しでも発達障害の子供を扱える、と見られるとすぐに専門家のように思われてしまいます。新田さん自身は発達障害や自閉症に関してたくさん勉強をして事業を展開していますが、特別な資格等は持っていません。
福祉経営は何といっても質で勝負すべきです。同じ価格ならばエンドユーザーは質のいい先生を選ぶ。ただそれだけなんです。
これまで、医療に関しては科学的な根拠(=科学性)が重視されてきたのに、福祉に関しては頑張りや思いやりなど心の面や愛情が重要視されてきました。しかし福祉にも科学的に裏付けされたデータや対処法があるのです。新田さんは特別独自的なことは一切せず、ただただ堅実に専門知識の勉強や研修などを行っていきました。
例えば、周囲の環境によってどんな行動が増えるのか、減るのか、ということを述べているABA(応用行動分析学)や、理学療法的な筋肉の直接触れるセラピーなど、専門家はいませんが地道に勉強して一人の子供を構築するメソッドを作っていきました。
新田さんは地道に、次を見据えて実践力(商品力)を強化していきました。ギフテッドの強みは何といっても社員です。福祉経営はすべて社員が行っており、その社員を商品として捉えています。また、離職率も適正値を目指し、高すぎず低すぎず、適切な新陳代謝が必要だと考えています。同じ価値観の人で固まらないためです。また、離職を恐れて迎合せず、また厳しくしすぎず、職員の精神的ケアをしてサービスの質を維持しています。どこまでもバランスが必要なのです。
ではギフテッドでは具体的にどんなことに取り組んでいるのでしょうか。
1>ナレッジの共有
ギフテッドの職員は日頃から本を読んで勉強をしたりセミナーに参加したり、自主的に自学習をしています。そこで得られた知識を他の職員に共有する時間を設けています。
2>外部講師による講習
消費者目線をクリティカル・シンキングで、本質を見抜く講習などを、外部のビジネスコンサルを招聘して行っています。
3>トレーニングで身体管理
3カ月に一度、提携をしているスポーツクラブで全従業員が集まってインボディを測定します。測定結果が良かった人には表彰などをしています。
4>従業員との親睦を深める
従業員と夏休み前などに飲み会を開催しますが、従業員の参加率が非常に高く、コミュニケーションがしっかりとれます。また、社員旅行も行っており、そこでも従業員同士で仲が深まり、仕事を行う上でちょうどいい距離感を作ることができます。
1>圧倒的コストの安さ
家賃や人件費、工事費等ほとんどが都市部に比べて低コストであるにも関わらず、収入は都市部とほとんど変わりません。
2>競合がすくない
3>地域の中で中核の役割になりやすい
4>地域で革新性があれば採用効率も高い
東京などの都市部で起業するより、地方で起業するほうが気楽にできるのではないでしょうか。
今子供たちをどうにかしたいとは考えていません。子供たちのことを理解してほしいと思っています。子供たちが持っている特性は大多数の人たちの感覚と少しずれているだけなんです。みんなと違うというだけで夢を絶たれた子供が過去にはたくさんいました。そういった子供たちが明日の新しい、革新的なものを作るのだと信じています。多様性を認められる度量の深い社会になればいいと切に願います。
ここからは登壇者のお二人と中川先生、また参加者の皆さんを交えてのトークセッションを行いました。
トークセッション
中川先生
「今回一番にお伝えしたかったのは、お二人のようなソーシャルアントレプレナーという人達は決して自分たちがすごいことをしている、素敵なことしていると思って仕事をしているわけではないということかもしれません。また、岩元さんの話にもあったように、自分を大切にすることが大事なのだと思います。
岩元さんも新田さんも、自然と自分のなすべきことを見つけ、特別なことを特別にしようと思ったわけではありません。『これが私の生きる道なんだ』ということを自然と見つけ、新田さんも少し補足をすると、教育現場の課題を目の当たりにして自分なりに大変勉強をされて、今の事業を始められています。
ソーシャルであるということは自然の感情であって、自分はどうあるべきか、ということを自分に投げかけて今の仕事をされているのではないかと感じた次第です。」
新田さん
「今後で言うと多店舗展開をしたいですね。中川先生の話の中にもありましたが、人間とサルの違いは何かというと共同保育ができることなんです。誰かが困っていたら助けてあげられる、そういう生き物なんですね。なので、家を建てる時に大工に頼るように、子育てといえば我々!という存在になりたいです。
今の子育てはなぜかすべて母親の責任になるんです。そうした母親たちがふらっと立ち寄って相談事ができるように、徳島県中に施設を増やしたいです。」
岩元さん
「私の今やっている活動はずっと続けることが正しいとは思っていません。なくなればいいと思っています。災害起因のものなので、時間がたっていけば災害起因の問題はどんどんなくなっていきます。今のところはまだよそ者として石巻にいるので、いつかは東京に離れていくと思っています。
今後も石巻を背負って10年、20年と活動してくことは考えていません。」
また、石巻の現状についてもお話頂きました。
岩元さん
「当初『仮設住宅の最後の住民がいなくなるまで』という想いで団体をたちあげましたが、現在の仮設住宅は7000戸から100戸ほどになっていて、もうすぐなくなるんです。なので、今は仮設住宅に行っても人に会えないんですね。
人がいない仮設住宅も大変なんです。蜘蛛の巣やハチの巣ができたり…。今は復興住宅を中心に活動していますが、仮設住宅に関して言えば2019年の9月には0になる予定なので、もうすぐ当初の目標は達成できそうです。
しかし、今度は復興住宅で問題が起きています。仮設住宅は平屋なのでお隣さんが誰だかわかるんですが、復興住宅はマンションなので、エレベーターホールでしか会わなくなりました。かつ、復興住宅に住んでいる人はもともと一戸建てで暮らしていた人がほとんどなので、マンションでの暮らし方がわからない人が多いんです。そういうところでコミュニティを形成するのがとても難しく、入居して半年たってもまだ知り合いが誰もいない、なんてこともあります。そういう移行期だからこその課題に対して今後はサポートしていきたいと思います。
しかし、ずっとサポートをして、私たちボランティアにおんぶにだっこの状態を作ってはいけないと思っています。私たちボランティアは感謝されていい気持ちにはなりますが、本当の意味で住民のためにはなりません。なので、徐々に住民同士のコミュニティを形成することにチャレンジしていきたいと思っています。」
新田さん
「ちょっと共通する話なのですが、多店舗展開をしたいといいつつ、本当は僕たちのような人たちがいてはいけないと思うんです。教育現場の先生や地域の人たちが活性化していけば僕たちはいらないんです。僕も目指せ、廃業!で頑張ります(笑)」
岩元さん
「難しいのですが、自分事として考えてもらえるようにすることだと思います。全国の人たちからすれば東北のことは過去のことかもしれませんが、今日本ではこんなに災害が多くて、誰でも被災者になりうるし、誰でも避難所で暮らす可能性があるんですね。なので、自分事として考えてもらえるように書くようにしています。また、取り上げられる人たちは年寄りが多く、若い人たちにはなかなかそういった現状は伝わりにくいのですが、自分が年を取ったり、自分の親が年を取ったりして同じ状況になるということもイメージしてもらえるように発信するようにしています。」
中川先生
「ソーシャルビジネスを成功させるうえでアカデミーとしてわかっていることを共有させていただきますと、キーワードはとにかく『共感(=Empathy)』、つまり自分事にしてもらうことです。
自分が経験していないことをあたかも自分が経験したかのように痛み・悲しみを感じ、問題がわかる、という共感能力、共感感情が人間の基礎となる感情なのです。なので、未来はこうなるんだということを上手に発信できると、たくさんの人から共感を得られて実現に至る、というプロセスが多く見られます。
発信した情報を自分事として捉えてもらい、共感してもらうことこそがカギであると証明されています。」
新田さん
「そんなこともないですよ。できる人に出来ることを任せて、自分にしかできないことだけやっているものですから、結構楽させてもらっています。なので、うちのスタッフにも同じようにしています。向き不向きやスタッフの特性を見て配置替えなども結構しています。割とスタッフは働きやすいと思います。」
中川先生
「いい経営者ですね!」
新田さん
「そうですね、例えば、パニックになると窓が震えるくらいに大声を出してしまう女の子がいたのですが、その子は一日で治しました。その子の母親は10年間そのことで夜も眠れず、最終的に僕の所へ来られたのですが、一日と言わず、1時間くらいで治しました。そういったことが他の保護者にも伝わったようです。」
“それはその子供が育てやすくなったから喜ばれた?”
新田さん
「母親の困りごとを取り除いた、という感じですね。しかし、中にはやり方に対して文句や異論を唱える人がいます。でも僕としては、結果として母親が涙を流して喜んでくれた、ということが大切だと思います。
発達障害の子供の子育ては普通の子育ての大変さを逸脱しています。そうした母親の困りごとを解決していく、そうした事例を積み重ねて還元していった、という感じでしょうか。」
“その場合、母親と父親の育てにくさを解決することは第一段階だと思います。そのあとの子供の自己決定や自己完結というところはどうされているんですか?”
新田さん
「パニックや加害などは自己決定の前の、外的要因で引き起こされているものです。まずはそこをニュートラルにして初めてその子の自己決定を促す、という流れになるかと思います。
また、自己決定自体でパニックを起こす子供もいます。決定ができない、決定自体が時と場合によって中途半端になってしまう、など、そうした部分を一つひとつ解決していくことが仕事だと思っています。」
新田さん
「既存の就業支援の会社とはお付き合いさせてもらっています。障がい者雇用をしている会社などに訪問などもしたりしています。
自社でも障がい者雇用をやりたいと思うのですが、ただ、特にしてもらう仕事が自社の中にはないので、カレー屋さんをしたいなと思っています。一つは僕がカレーが好きだから、ということもあるのですが(笑)、子供に対面接客をしてもらいたい、というのもあります。タスク管理をしっかりして今年中にはやってみたいなと思っています。」
岩元さん
「震災当時、私は仕事はしていなくて、かつ、東京では計画停電も実施していて、いつ電車が止まるかわからないので、ずっと家にいてテレビを見ていました。テレビでは行方不明者、死者数や現地の様子などがずっと流れていて…。
友人は医療や消防の分野で現地に入って支援などをしていましたが、対して自分は車の免許もないし、ちょっと英語とパソコンができるだけで、何もできませんでした。そんな支援に関して特別なスキルのない私でも力が必要になったら必ず行こうと、震災発生後の何日かは思っていました。
思ったよりも早くボランティアとして現地での支援活動に参加はできましたね。すると、そこでよく言われるのは「ありがとうと感謝をされることにやりがいを感じているのか」ということなんですが、私自身はそこにあまりやりがいというものを感じていません。どちらかというと、自分ができないことに対してのどうにもならない悔しい想いの方がモチベーションになっています。
もう一つは石巻の人と食べ物がとてもいいことですね。大好きです。一年中おいしいものがあって、そういった、自分が楽しいと思えることも続けるうえで大切だと思います。」
中川先生
「これはぜひ新田さんにも始めたきっかけなど伺えるといいですね。」
新田さん
「そうですね、正直、起業したきっかけは「儲かりそうだな」と思ったからですが、今この仕事を続けている原動力は全く違います。実は最近、本当に僕はダメな人間だな、と思うことがあるのです。
僕の母はいわゆる『おかあちゃん』という感じで、よく怒られていました。そうして育ってきて、大学へ行き教師になって、思っていた理想と違ったときに僕はダメだな、と思っていたのですが、それは僕が悪かった訳ではなく僕の特性であって、今はこうして子供に教えてお母さん方に喜んでもらえて、自己実現できているなと今では感じています。今はすごく楽しい毎日です。だから子供たちにも、人との優劣ではなくて自分だけのポジションがあるんだ、ということを話しながら生きています。」
中川先生
「ぼちぼち時間となりましたので、まとめさせていただきますね。
今日皆さんがお二人を見て感じられたのは、なんと自分らしく生きているのだろう、ということだと思います。ソーシャルであるということはそれよりも前に自分に正直で自分を大切に生きているということがポイントなんだと思います。きちんと自分を見つめて、人に対して同じく等しく大切に接しているといことがお二人からうかがえます。
原点に立ち返って、自分とはどういう人なのか、どう生きていければいいのか、それを通じて誰かを大切にできればいい、ということは、お二人だからできるのではなく、ここ(会場)にいる皆さんとて同じことなのではないかと思います。
皆さんは皆さんなりのソーシャルを生きてください。ソーシャルという前に、まずは自分自身を見つめなおして、自分はどういうことで喜びを感じるのか、ということを考えてみてください。そういった行動が良き社会の起点となると思います。」
中川先生の素敵な言葉でトークセッションは終了。参加者を交えての懇親会にてイベントも終了しました。
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